今日の振り返りノート

実際に心のうちを、信頼している人に話すということは、ほんとうに大事だなと思った

自分が思っている何倍も、というか量よりも質の方が重要だと思うが、ずっとずっと、自分に影響をもたらすなあと、感じている

 

ずっと言えていなかったことを、良人に伝えた

そうしたら、かねてから頭の中でいろいろ考えていた言葉の選択や伝え方ができたこともあって、嫌な仕方で伝わることなく、真意が届いたように思う

嬉しい

 

カウンセラーの人に先週、別のベクトルではあるが、口にするのもその片鱗をにおわせることも憚られるような、心のうちというか、衝動とか葛藤とか欲望の話をした

その時も、同じように、思っていたよりずっと気持ちが軽くなった

 

 

自分は、こんなところであれこれ思いつくまま考えや感じたことを、話している時とかなり近い言葉遣いで書いたりするような人間であるので、そんなに他人に自己を開示するのが怖くない人間なんじゃないかと思っている節がある

しかし、その実、人前じゃとても言えないなと思っているようなものをたくさん抱えている

 

でも、それがふつうなんだよな、おそらく

 

 

 

 

別の時点の話として、

良人に、「自分のことを理解しようとしてくれるから好きだ」と言われた

いくらか反論?というか、ふだんはこういうこと言うくせに、と、半ば突っぱねるようなことを返したが、そのあとちゃんと、ありがとう、嬉しいと伝えた

 

理解しようとしている、そのことが伝わることが、とても嬉しい

嬉しかったのだ

 

自分のことを理解してもらいたいとか、そういった下心や、相手に施せば同じことが自分に返ってくるだろうといった損得感情に関係なく、ただただ、その相手のことを知ろうとする、理解しようとする瞬間が、自分にだって、たしかにあるはずで

あったはずで

それを受け取ってもらえていることが、認めてもらえることが嬉しいのだ

僕にとって、それは、愛情に類する感情であるように、どうしても思えてならないから

 

 

 

おやすみなさい

 

 

 

ログ

仕事仕事仕事

そんな一日でした

 

よく喋った

途中いろいろもつれていた

 

いろんなことが回っていないのは相変わらず

しっかりやっていきたい

 

少し頭が悪くなっている気がする

頭がよくなったように思える瞬間がいくらかあるから、そう思う

こういう瞬間が増えるということは、変な万能感に付き纏われており、視野が狭くなっているシグナルだ

だから、調子に乗りそうになるところを、ぐっと抑える

 

その延長、というか、上の気づきが今なされたので、その気づきに至るまでの日中の出来事を話すが、

自分のように聡明に考えたりもしているはずだと思っていた人間が、思ったより馬鹿だったということがある

葛藤の末にそんな振る舞いをしているんじゃないか、と考えていたら、案外何も考えていなかったり本気でその馬鹿な発言や振る舞いが正しいと信じていたりすることがある

馬鹿だったのか、思ったよりも

 

私と同じようにある程度考えられているならば、そんな馬鹿なことにならないよな、と、そう思った

 

 

 

 

ここまでが日中の出来事

で、上の気づきを経て、また考え直す

 

俺も自分が思っているよりも聡くないし、努力もできてない馬鹿野郎だが

だからといって、馬鹿じゃねえのと唾棄したくなるその人は、本当は馬鹿じゃないのだろうか

俺のレンズ側の問題だったのか

 

 

そうでない気がしてならない

他人と話していて、そういう、自分が感じていることをその人も感じているだろうリアクションをもらうことが多いからかもしれないけど

その相手もまた、気を遣ったり合わせてくれたりしているのかもしれないけど

 

 

まぁいいか

 

眠いので寝ます、おやすみなさい

 

 

【所感】インターネットの複数の話題から

Twitterをやめるぞ、とアプリから蠅地獄をログアウトしたわけだけど(仕事で使うアカウントもあるからアプリは消さなかったんだね)、仕事の方のアカウントで見てしまった、なんか話題になっている人の書き物関連のあれこれを見て、いろいろ思うなどした

 

一つは、「思ったより、世の中ああいうあり方の人はごろごろいるんだなあ」ということ

渦中の人がそうだ、という話でなく、その人に色々言っている人の中で、明らかにそういうあり方の自分/他人に振り回されたことで、伝えているその発言内容の考えに至ったのであろう人が、わりにゴロゴロいた

ああいう型のぶっ壊れかた、インターネットの使い方、人との距離の取りかた、善悪や正誤の話に全ての事柄をもっていって最後には自分が正しいという考え方、というか自分の身の守り方、結構世間にありふれているんだなあとびっくりした

ああいう生き方をする人間はさぞ特殊なのだと思っていたが、まあまあいるらしい

まあまあいるということは、多分、捨て置かれることもまあまああるんだろう

じゃあ、まあ、そんなに、重篤に深刻に考えなくてもいいのかもなと、少し思った

 

 

今日はイレギュラーによく働いた

ご飯を食べたら美味しいと思えてよかった

明日はまた仕事だ

研究と勉強が進まない、ということよりも、まずは身を立て直すことから

 

 

 

あ、そうそう

もう一つ、別の文脈で話題になっているものを見た

レッテル貼りで断罪しても、誰のためにもならない、みたいな話

なかなか熱をもって、また人に訴えかけるようなエピソードをたくさん説得的に使いながら語っている人がいたが

レッテル貼りして断罪する人自身が、理解されたかったり許されたかったりすることに無自覚であることについての言及は希薄だったので

届かせたい層の一部には、届かんだろうなと思った

 

 

さらにもう一つ

最初の話題に連関してか、手紙を長々と書くことと、自分が理解されれば許されるだろう、また問題が解決するだろうという思考との間に相関があるように思えるという話をしている人がいた

自分もまた、こうやって、理解されたいと文章を書く人間であるから、チクリと刺さるところもある

そうよね、相手を理解することからなんだろうね

相手を理解したいというのもまた、それによって自分が理解されたいという下心が空転しているうちは、やっぱりうまくいかないんだろうけど

だから、多分、理解してくれる、受け止めてくれる人が、まずは必要なんだろうね

 

 

そういえば、良人と一緒に住んでからは、あまり手紙を書かなくなったな

伝えたいことを伝えたい時に、目の前の相手を見ながら伝えようと思える、つまり相手を信頼できるし、またそれが実際に実現できるから、そうなのかもしれんなあと

(それはそれとして、形に残るから手紙はあげたいしもらいたいよね

もらう分には、良人に限らずとも、嬉しいことが多いしね)

 

 

以上、インターネットの話題からぽろぽろ思ったこと三選(三つしかないから別に選んではいないが)でした

記事タイトルはここまで書いてからふざけて付けました、アホっぽいよね

覚え書き

この間気づいたことで、どうしても残しておこうと思ったこと

 

私がはじめて美的経験だと感じた経験をしたのは、万博公園だった

その時はじめて、美に触れたような気がした

それからは美術館や建造物、自然、装飾物、街のちょっとした風景やデザインなどの、様々な美しいものを見る時の経験が、明らかに変質したように思われた

 

でもこの間、気がついた

カウンセリングの場だったか、良人と布団で転んでた時か、どっちだったか、どっちもだったか、それは忘れてしまったけど

あれは美的経験ではなかった、美的現象に対峙したのではなかった

あれは

 

 

 

愛情だったのだろう

 

 

 

それに気づけたなら、違う分岐に自分は立っていたのだろうか

今となっては分かるべくもない

 

でも気づいてしまったので

あれだけは、確かなもの、現在と接続するほんとうの、まじりっけのない純粋な気持ちだったのだろう

 

 

気づいたところでこれから何かできることなどはないわけで

私にできることは、私が健やかに生きることだけだろう

そうじゃないですか?

違うなら、言ってくれよ

 

 

 

そんなこと、こんな電子の光る板に書いたところでどうにもならない

 

 

おしまい

変容ではなく変奏なのかもね、だって何度か通った道だもの

私の実名を知っている人、Twitterの蠅地獄アカウントで繋がっているわけではない人で、こうやって私があれこれインターネットに乱雑に文章を書き散らしていることを知っている人は、何人くらいいるのだろう

案外知られていたりして、という不安を抱くこともあるが、閲覧数から考えるにほとんど心配しなくてよさそうだ

 

今日は人と話した

メールでも、直接でも、オンライン通話でも話した

 

明日は良人と昼ごはんを食べに行く

お疲れのようだから、少しは労わってやりたいが、私の方もすぐにあっぷあっぷしてしまう

 

 

今日、偶然会った友人に、「〇〇さん(蠅地獄)には友人や、味方になってくれる人がたくさんいるから、きっと大丈夫ですよ」と言われた

友人も色々苦しんでいるが、それでも、色んなことを考えながらも、研究に取り組むことで、自分の中の大きな課題とも向き合うのだという

 

もらったその言葉は、世界への信頼をもっと持っても大丈夫だよ、というメッセージを含んでいるように思えた

私のまわりで、仲良くしてくれたり、心を砕いてくれたり、色んな手助けをしてくれる人たちがいる

悲嘆にくれず、全てを諦めずに、生きたっていいんだよ、そういうことなのかもしれない

 

彼は、「生きねばならない」でなく、「生きたっていい」と言えるように、そうなりたい、ということを言っていた

そういう仕方で着陸できたら、それもまたいいなと思った

 

 

 

太陽の塔

太陽の塔が好きだ

 

金銭面、安全面、いろんな都合を度外視した、それが存在することを主な目的として存在している、そういうデカい建造物であるところが好きだ

わかりやすさとメッセージを伝えたいという姿勢の素直さ、堂々としたあり方が好きだ

時代も世代も社会もみんな変わってしまっても、それでも人を圧倒させる力強さが好きだ

 

だだっ広い、背の高いものが周りにほとんどない広場に、誰にも何にも隠れずにそこに存在している、その姿に元気づけられるから好きだ

 

 

毎回時間の都合で、周りの施設に行けないことが多いので、次に行く時は必ず、と思いつつ、

今日もまた、今回付き合ってくれた相手の都合や天気のため、太陽の塔と周りの散歩で時間オーバーとなった

 

 

意味がわからないところが好きだ

意味がわからない、と言いつつ、めちゃくちゃ分かりやすくはある、そういうところが好きだ

 

理屈も理由もなく、巻き込んでくれるところが好きだ

 

私にとってもまた、度外視されるのだ

そういう、頭で考えられるような、要素として抜け出せるようなものが、みな、すべて

何をどう、足し引きして、掛け算割り算しても

 

また、もう一度、対顔することを求める

どんな理由があろうとなかろうと、それがよいものであり、そういう引力が働くからだ

 

 

 

何度も、好きだの愛してるだのという言葉を、様々な場、媒体で書き連ねてきたが

一生分やってしまったような気もするが

 

好きなものは好きだ

とにかく、いざ目の前に現れると、どうしたっていつのまにか惚けてしまう

その感情は、恐怖や不安にも似ているし、それらが必然的に結びついている

 

 

今日もまた、見入っていた

いつかの感慨と重ねつつ、また新たな鮮やかさをもって、それを感じていた

 

 

太陽の塔が好きだ

 

 

内容は、親しい人にたまにする話の繰り返しである

ここに置いてある日記を読み返したら、そんなこと言ってたんだねぇという気持ちになった

 

マッサージ機のおかげで少し肩と首が楽です、嬉しいね

 

 

東尋坊に行った時の文章を改めて読んだけど、俺ってなんだか薄っぺらいなあと、そういう、あまり心は震えない同情みたいな感覚を覚えた

薄っぺらいとはこの場合、思ったより自分の悩み事って、多くは過去のことだしミクロな問題だよね、と思ったということである

 

 

それの延長として、自分の過去として大きな役割があるはずのもの、つまり18までいた家で一緒に住んでいた家族のことを思い出していた

こういう時、妹のことだけ何故か頭に浮かばないのだが、まともに話すようになったのが私が大学に入ってからのことなので、大学入学以来の知り合いだと、妹のことを思っているのかもしれない

 

父と母と、私はどんな話をしていたかなと、

思い出そうとするが、ほとんど出てこない

エピソードは折に触れて、ふと思い出すことはあるけれど

父と、母と、生活をまわすために必要なコミュニケーション(これは、夕飯の場でだんまりにならないようにとりあえずテレビの内容などに言及する、なども含む)以外の、私的なやりとりをした記憶がほとんどない

 

父、母がどんな人間であるか、なんとなく知っているのに

私は彼らを観察することでしか、その情報を得ていない

祖父母についてもそうであった気もする

 

 

 

 

 

身近な他者と、私的なコミュニケーションが取れない環境で育つことは

(ASD的特性などの事情もある程度影響し、)

自分の頭の中で完結するような世界で生きる、そういう人格を育てることもあるらしい

 

私的なコミュニケーションが取れないとは、何もコミュニケーションの機会自体がないことばかりでなく

話す相手(子供の時の環境で考えれば、親などの周りの大人)の考えや感情が一貫せず、発話の意味が分からないまま服従させられることなども含む

 

 

自分の頭の中で完結するとは、

自分を超越する大きな規律や規範、信念との戦いが生じず、

また、自己と異なる背景、規範、信念などをもつ他者が存在することを、対峙しているその最中において″感覚″することができず、

それゆえに、理解できない他者も、出来事も、自分の世界に現れてこないということである

 

具体的に言えば、人と話しているようでも、自分の興味や関心、自分が正しいと思っていることに引き付けて、常に他者や出来事を解釈し、それを他者と(ほんとの意味で)共有することもなく、ただただ保持したり、壁打ちのように提示するだけ提示する、そういうあり方である

 

 

理解できない他者や出来事が、自分の世界に現れないとはどういうことか

 

規律や規範さえも、自分の頭で作ったもの、自分が制定し採用したものしか自身のうちにないため、

規律や規範、もしくは道徳に基づいた価値や意味が他者と衝突した時に、他者が異なる規範のもとで価値や意味を考えることを想定できず、自分の頭の中の規範(多くの場合、世に蔓延る様々な言説を持ち出し、自分に都合の良いように意味を捻じ曲げている、もしくは極端に解している)に基づき、相手のそれを間違いや悪であると断ずる

 

つまり、理解できないのでなく、それらは、間違いだ、悪だ、と、そうなるのである

「理解できない」その事態への解釈としてあらわれるのは、理解できない他者の存在の可能性の暗示ではない

自分には理解できない、かつ正しいかもしれないものは存在しないので、間違い、もしくは悪となる

 

そして多くの場合、間違いや悪なのだと断じていいという妥当性の根拠として最後に出てくるのは、「自分が傷ついたから」「自分にとって嫌なものだったから」という、主観的な感覚である

(自分自身の個人的な快不快と、世界における善や正しさが混同されている、というより、そういった人間においては、それらは同一のものとして世界が構成されている)

(善や正しさが世界に宙に浮いており、個々人の感覚と完全に切り離されているわけではもちろんない

しかし、個人の感覚が直接、なんの判断もなしに世界における(つまり真なる)善、正しさと接続していると信じられている点が、このあり方の病的な部分である)

 

自分が傷ついたのだから、悪だと断じていい

世の人間も、自分の傷つきや自分の信念に基づき人を悪だ間違いだと断じているはずだから、自分だってやっていい

そのような認識が前提されている

(このような前提だと、自分が間違っている、自分が悪である、という帰結は(ある程度、表層的に、もしくは解像度の低い状態では出てきても、)出てこない

事態のうまくいかなさ、人生のうまくいかなさから、漫然とそのようなことを口にすることはあっても、本当のところ、自分が間違っている、悪であるとはどういう状態であるのか、理解することができないからだ

多少の変更があったとしても、基本的には「自分の頭の中の世界」において作られた規範、信念が間違っているはずはない、と、なる

反省ができない人、などという指摘を受けることを嫌うがために、間違いを修正できる能力が自分にはあると信じている場合が多く、自身の訂正可能性の余地のなさに無自覚であることがほとんどである)

 

もちろん、そのような認識を人々が持っているという側面が、世界全体に全くないとは言えない

しかし「他者のいる」世界というものはそれほど単純化して理解できるものではない

また、明文化された法やルールなどを持ち出し、ある時はそれを根拠に、ある時は不正にそれが適用されたのだと、自分の都合や状況に合わせて恣意的にその権力を用いることもまた、「他者のいる」世界では単純化しすぎた手法である

(というのも、このような場合も、法やルールの適用の妥当性に関する判断も、自身の頭の中での信念に「のみ」依存するためである)

 

ここでいう、単純である、とは、「他者のいる」世界の認識に失敗し、全てを「自分の頭の中の世界」に還元して、世界の全てをそこにある枠組みから「のみ」見ているということである

 

 

出来事をみる、事態をみる、他者をみるということは、

都度、考え、理解しようとし、理解できない部分もあることを認め、その中でどのような調停(これは、その場にいる勝者一人以外を全員屈服させるような終わりを指しているわけでは、もちろんない)が可能であるかを見極めようとすることであり、

自身の判断したその世界の解釈、他者の解釈、出来事の解釈、価値や意味、それを支える規範や信念の解釈を、

その都度もう一度問い直すことである

 

自分ではない他者がいるのだから、異他なるものがいるのだから、

自己が抱えているものが「必ず」正しいと、証明したり揺るぎないものとして掲げたりすることは、原理上不可能である

 

他者に開かれているとは、

自己の訂正可能性を真摯に受け止めることと、

(その訂正が自身にとって不名誉であったり苦しかったり憤慨するものであっても、とりあえず受け止めようとしてみることと、)

他者もまた訂正可能性を抱いて考えてくれるはずだという信念を、投企的に抱くことである

 

 

 

 

 

家族とのコミュニケーションの話に戻る

というより、なんでそんな話に展開したか、その理由を頑張って書いてみる

 

俺はあの環境にいて、どうして、他者への開かれだとか、理解だとか、そういうものに興味を持ったのだろうと、不思議に思った

理解されたいと、また理解したいと、なぜ願ったのだろうか

どうして、理解されないことを苦痛だと思い、それを別の方向へ向けずそのまま抱き続けたのだろうか

 

理解してくれない他者に怒りを感じたり、

理解されること自体を軽視したり、真の意味ではどうせ不可能であるとして棄却したり、

理解してくれない他者を、また理解できない他者を馬鹿にしたり、見下したり、自分より劣っていると決めつけることは、

きっと簡単であったはずだし、

それによって心が守られることもきっとあったはずだし、

そんなにそれらが、起こりにくい心的作用でもなかったはずなのに、

 

どうして俺は、そんなにも、他者との理解の達成の追求に、はたまたその非達成、未達成について受け入れることに、執着するのだろうか

 

 

 

そこまで考えて、オチとして打ち出せるような答えは特に出てこないなあと思った

パッと出てきたのは、「自分にとって、自分のことを分かったり、人のことを分かったり、何かのことを分かったり、分からない事柄についての向き合い方について分かったりすることが、面白いから、嬉しいから、自分を楽にしてくれる気がするから」というものだが、

それは今の、もしくは思い出せる限りの過去の状態の記述であって、理由ではないようにも思う

 

それにしたって不思議だ

どうして俺は、あんなふうに、自分の世界に閉じこもって、他者を攻撃したり、憎んだり、見下したり、自分の頭の中の世界をまわすことで満足したり、

そういうことが、できなかったし、しなかったのだろうか

 

どうして、自分の見る世界で満足したり、自分が何より賢い、優れていると信じたり、そうでなかったとしても一番信用できるのは自分だと信じ切ったり、できなかったんだろうか

どうして、俺は、

俺は、

ここまで、誰かのことや自分のことを、

考えようとするのだろうか

考えることをやめないのだろうか

 

 

 

多分、答えらしい答えを出しても、その場の自分をすっきりさせる以上の効果は望めなさそうであるし、

答えがあろうとなかろうと、そのこと自体が現在の自分のあり方を変えることもなさそうである

(このあり方よりもよさそうなあり方を見つけるとか、このあり方ではまずいと本気で思った時、変化を望むかもしれないし、

その時その時の環境に影響されて、自分でも知らないうちに変化しているかもしれない

どうせ変わる時は変わるのだ、と思っていたり、変わるべき時に変わるんだと信じていたって失敗する時は失敗するのだとも思っていたりする)

 

 

 

そんな感じです

 

寝ます

 

 

 

 

 

最後に、

 

書き振りが書き振りであるがゆえ、これが特定の誰かを貶める文章に見えることもあるかもしれない

 

そうではない

なぜなら、私は、「自分の頭の中の世界に生きる」ことは悪であるとは、考えていないためである

 

そう、悪でも間違いでもない、

そういう生き方が、確かに存在するのだという、そういう確信が、観察と自己内省の結果としてあるのだということである

たとえそれによって誰かを傷つけたり脅かしたりしていても

それはその行為が問題であり、悪だとか間違いだとか審議されるのであって

その原因がそういったあり方に還元できるように見えたとしても、

ただそのようにあること自体は、責められなくてよいように思うのである

 

 

また、「(そんなことを偉そうに言う)お前はどうなんだ」と問いかけたり詰め寄ったりしたい人が、出てくるかもしれない

俺はそうではないよ、他者のいる世界に生きているよ、なんて、そんなことを言うことに、特には執着していない

もし尋ねられたならばそのように答えるだろう

 

はっきりと区別できるものでなく、ある程度はみな、「自分の頭の中の世界」に生きるときと、「他者のいる世界」を生きている時があるように思う

 

ただ、文中で一度「病的」という言葉を使ったことを(また、「捻じ曲げる」などのネガティブな言葉遣いをいくらかしていることについても)詳述すると、

明らかに自分の人生や状況がうまくいっていないという場合に、

それでもなお、「自分の頭の中の世界」で「のみ」生きる、考えることをやめられないとき、言い換えれば、自分こそが正しく、周りがおかしいのだと、それを疑わないとき、

それは病的であると、つまり、自分を蝕むものとなるだろうと、そのように思っている

(もちろん、自分を蝕んだって、それよりも大切にしたいものがあるとか、

自分を蝕む状態をネガティブに捉えることは必然じゃないとか、

そういうことも言えるから、

「病的な」と考えることも不適切、もしくは私の思想の不徹底だということもできるかもしれない)

 

(でも、私は、少なくとも、自分の周りの大切な人には、自分を蝕む状態でなくあってほしいと、思ってしまうよ)

 

 

 

 

20240328 4:20追記

 

書いてはみたけど

こんな書き物はね

というか、僕の書き物は大体全部ね

届いてほしいところには届かず

何かしら響いてほしいところには突っぱねられて憎まれ蔑まれる

 

ということを、何度も繰り返していることも、ちょっと経ってから思い出した

こんな感覚だったな、そういえば

 

誰かに分かってもらうためのものを書いた気になるけど、そもそも私のこの話に乗れるのは、この話の中に出てくるような人では絶対にありえないんだった

 

そういう悲しさ、自分の学習能力の無さに、打ちひしがれている

 

今度こそ寝ます

おやすみなさい