ここに置いてある日記を読み返したら、そんなこと言ってたんだねぇという気持ちになった
マッサージ機のおかげで少し肩と首が楽です、嬉しいね
東尋坊に行った時の文章を改めて読んだけど、俺ってなんだか薄っぺらいなあと、そういう、あまり心は震えない同情みたいな感覚を覚えた
薄っぺらいとはこの場合、思ったより自分の悩み事って、多くは過去のことだしミクロな問題だよね、と思ったということである
それの延長として、自分の過去として大きな役割があるはずのもの、つまり18までいた家で一緒に住んでいた家族のことを思い出していた
こういう時、妹のことだけ何故か頭に浮かばないのだが、まともに話すようになったのが私が大学に入ってからのことなので、大学入学以来の知り合いだと、妹のことを思っているのかもしれない
父と母と、私はどんな話をしていたかなと、
思い出そうとするが、ほとんど出てこない
エピソードは折に触れて、ふと思い出すことはあるけれど
父と、母と、生活をまわすために必要なコミュニケーション(これは、夕飯の場でだんまりにならないようにとりあえずテレビの内容などに言及する、なども含む)以外の、私的なやりとりをした記憶がほとんどない
父、母がどんな人間であるか、なんとなく知っているのに
私は彼らを観察することでしか、その情報を得ていない
祖父母についてもそうであった気もする
身近な他者と、私的なコミュニケーションが取れない環境で育つことは
(ASD的特性などの事情もある程度影響し、)
自分の頭の中で完結するような世界で生きる、そういう人格を育てることもあるらしい
私的なコミュニケーションが取れないとは、何もコミュニケーションの機会自体がないことばかりでなく
話す相手(子供の時の環境で考えれば、親などの周りの大人)の考えや感情が一貫せず、発話の意味が分からないまま服従させられることなども含む
自分の頭の中で完結するとは、
自分を超越する大きな規律や規範、信念との戦いが生じず、
また、自己と異なる背景、規範、信念などをもつ他者が存在することを、対峙しているその最中において″感覚″することができず、
それゆえに、理解できない他者も、出来事も、自分の世界に現れてこないということである
具体的に言えば、人と話しているようでも、自分の興味や関心、自分が正しいと思っていることに引き付けて、常に他者や出来事を解釈し、それを他者と(ほんとの意味で)共有することもなく、ただただ保持したり、壁打ちのように提示するだけ提示する、そういうあり方である
理解できない他者や出来事が、自分の世界に現れないとはどういうことか
規律や規範さえも、自分の頭で作ったもの、自分が制定し採用したものしか自身のうちにないため、
規律や規範、もしくは道徳に基づいた価値や意味が他者と衝突した時に、他者が異なる規範のもとで価値や意味を考えることを想定できず、自分の頭の中の規範(多くの場合、世に蔓延る様々な言説を持ち出し、自分に都合の良いように意味を捻じ曲げている、もしくは極端に解している)に基づき、相手のそれを間違いや悪であると断ずる
つまり、理解できないのでなく、それらは、間違いだ、悪だ、と、そうなるのである
「理解できない」その事態への解釈としてあらわれるのは、理解できない他者の存在の可能性の暗示ではない
自分には理解できない、かつ正しいかもしれないものは存在しないので、間違い、もしくは悪となる
そして多くの場合、間違いや悪なのだと断じていいという妥当性の根拠として最後に出てくるのは、「自分が傷ついたから」「自分にとって嫌なものだったから」という、主観的な感覚である
(自分自身の個人的な快不快と、世界における善や正しさが混同されている、というより、そういった人間においては、それらは同一のものとして世界が構成されている)
(善や正しさが世界に宙に浮いており、個々人の感覚と完全に切り離されているわけではもちろんない
しかし、個人の感覚が直接、なんの判断もなしに世界における(つまり真なる)善、正しさと接続していると信じられている点が、このあり方の病的な部分である)
自分が傷ついたのだから、悪だと断じていい
世の人間も、自分の傷つきや自分の信念に基づき人を悪だ間違いだと断じているはずだから、自分だってやっていい
そのような認識が前提されている
(このような前提だと、自分が間違っている、自分が悪である、という帰結は(ある程度、表層的に、もしくは解像度の低い状態では出てきても、)出てこない
事態のうまくいかなさ、人生のうまくいかなさから、漫然とそのようなことを口にすることはあっても、本当のところ、自分が間違っている、悪であるとはどういう状態であるのか、理解することができないからだ
多少の変更があったとしても、基本的には「自分の頭の中の世界」において作られた規範、信念が間違っているはずはない、と、なる
反省ができない人、などという指摘を受けることを嫌うがために、間違いを修正できる能力が自分にはあると信じている場合が多く、自身の訂正可能性の余地のなさに無自覚であることがほとんどである)
もちろん、そのような認識を人々が持っているという側面が、世界全体に全くないとは言えない
しかし「他者のいる」世界というものはそれほど単純化して理解できるものではない
また、明文化された法やルールなどを持ち出し、ある時はそれを根拠に、ある時は不正にそれが適用されたのだと、自分の都合や状況に合わせて恣意的にその権力を用いることもまた、「他者のいる」世界では単純化しすぎた手法である
(というのも、このような場合も、法やルールの適用の妥当性に関する判断も、自身の頭の中での信念に「のみ」依存するためである)
ここでいう、単純である、とは、「他者のいる」世界の認識に失敗し、全てを「自分の頭の中の世界」に還元して、世界の全てをそこにある枠組みから「のみ」見ているということである
出来事をみる、事態をみる、他者をみるということは、
都度、考え、理解しようとし、理解できない部分もあることを認め、その中でどのような調停(これは、その場にいる勝者一人以外を全員屈服させるような終わりを指しているわけでは、もちろんない)が可能であるかを見極めようとすることであり、
自身の判断したその世界の解釈、他者の解釈、出来事の解釈、価値や意味、それを支える規範や信念の解釈を、
その都度もう一度問い直すことである
自分ではない他者がいるのだから、異他なるものがいるのだから、
自己が抱えているものが「必ず」正しいと、証明したり揺るぎないものとして掲げたりすることは、原理上不可能である
他者に開かれているとは、
自己の訂正可能性を真摯に受け止めることと、
(その訂正が自身にとって不名誉であったり苦しかったり憤慨するものであっても、とりあえず受け止めようとしてみることと、)
他者もまた訂正可能性を抱いて考えてくれるはずだという信念を、投企的に抱くことである
家族とのコミュニケーションの話に戻る
というより、なんでそんな話に展開したか、その理由を頑張って書いてみる
俺はあの環境にいて、どうして、他者への開かれだとか、理解だとか、そういうものに興味を持ったのだろうと、不思議に思った
理解されたいと、また理解したいと、なぜ願ったのだろうか
どうして、理解されないことを苦痛だと思い、それを別の方向へ向けずそのまま抱き続けたのだろうか
理解してくれない他者に怒りを感じたり、
理解されること自体を軽視したり、真の意味ではどうせ不可能であるとして棄却したり、
理解してくれない他者を、また理解できない他者を馬鹿にしたり、見下したり、自分より劣っていると決めつけることは、
きっと簡単であったはずだし、
それによって心が守られることもきっとあったはずだし、
そんなにそれらが、起こりにくい心的作用でもなかったはずなのに、
どうして俺は、そんなにも、他者との理解の達成の追求に、はたまたその非達成、未達成について受け入れることに、執着するのだろうか
そこまで考えて、オチとして打ち出せるような答えは特に出てこないなあと思った
パッと出てきたのは、「自分にとって、自分のことを分かったり、人のことを分かったり、何かのことを分かったり、分からない事柄についての向き合い方について分かったりすることが、面白いから、嬉しいから、自分を楽にしてくれる気がするから」というものだが、
それは今の、もしくは思い出せる限りの過去の状態の記述であって、理由ではないようにも思う
それにしたって不思議だ
どうして俺は、あんなふうに、自分の世界に閉じこもって、他者を攻撃したり、憎んだり、見下したり、自分の頭の中の世界をまわすことで満足したり、
そういうことが、できなかったし、しなかったのだろうか
どうして、自分の見る世界で満足したり、自分が何より賢い、優れていると信じたり、そうでなかったとしても一番信用できるのは自分だと信じ切ったり、できなかったんだろうか
どうして、俺は、
俺は、
ここまで、誰かのことや自分のことを、
考えようとするのだろうか
考えることをやめないのだろうか
多分、答えらしい答えを出しても、その場の自分をすっきりさせる以上の効果は望めなさそうであるし、
答えがあろうとなかろうと、そのこと自体が現在の自分のあり方を変えることもなさそうである
(このあり方よりもよさそうなあり方を見つけるとか、このあり方ではまずいと本気で思った時、変化を望むかもしれないし、
その時その時の環境に影響されて、自分でも知らないうちに変化しているかもしれない
どうせ変わる時は変わるのだ、と思っていたり、変わるべき時に変わるんだと信じていたって失敗する時は失敗するのだとも思っていたりする)
そんな感じです
寝ます
最後に、
書き振りが書き振りであるがゆえ、これが特定の誰かを貶める文章に見えることもあるかもしれない
そうではない
なぜなら、私は、「自分の頭の中の世界に生きる」ことは悪であるとは、考えていないためである
そう、悪でも間違いでもない、
そういう生き方が、確かに存在するのだという、そういう確信が、観察と自己内省の結果としてあるのだということである
たとえそれによって誰かを傷つけたり脅かしたりしていても
それはその行為が問題であり、悪だとか間違いだとか審議されるのであって
その原因がそういったあり方に還元できるように見えたとしても、
ただそのようにあること自体は、責められなくてよいように思うのである
また、「(そんなことを偉そうに言う)お前はどうなんだ」と問いかけたり詰め寄ったりしたい人が、出てくるかもしれない
俺はそうではないよ、他者のいる世界に生きているよ、なんて、そんなことを言うことに、特には執着していない
もし尋ねられたならばそのように答えるだろう
はっきりと区別できるものでなく、ある程度はみな、「自分の頭の中の世界」に生きるときと、「他者のいる世界」を生きている時があるように思う
ただ、文中で一度「病的」という言葉を使ったことを(また、「捻じ曲げる」などのネガティブな言葉遣いをいくらかしていることについても)詳述すると、
明らかに自分の人生や状況がうまくいっていないという場合に、
それでもなお、「自分の頭の中の世界」で「のみ」生きる、考えることをやめられないとき、言い換えれば、自分こそが正しく、周りがおかしいのだと、それを疑わないとき、
それは病的であると、つまり、自分を蝕むものとなるだろうと、そのように思っている
(もちろん、自分を蝕んだって、それよりも大切にしたいものがあるとか、
自分を蝕む状態をネガティブに捉えることは必然じゃないとか、
そういうことも言えるから、
「病的な」と考えることも不適切、もしくは私の思想の不徹底だということもできるかもしれない)
(でも、私は、少なくとも、自分の周りの大切な人には、自分を蝕む状態でなくあってほしいと、思ってしまうよ)
20240328 4:20追記
書いてはみたけど
こんな書き物はね
というか、僕の書き物は大体全部ね
届いてほしいところには届かず
何かしら響いてほしいところには突っぱねられて憎まれ蔑まれる
ということを、何度も繰り返していることも、ちょっと経ってから思い出した
こんな感覚だったな、そういえば
誰かに分かってもらうためのものを書いた気になるけど、そもそも私のこの話に乗れるのは、この話の中に出てくるような人では絶対にありえないんだった
そういう悲しさ、自分の学習能力の無さに、打ちひしがれている
今度こそ寝ます
おやすみなさい