答え合わせは直接の面会時に、口頭でのみ行うこととする

ことばを

 

吐き出すことができず

 

伏せったり、倒れるように意識を失ったり

吐き気を噛み殺したり

 

 

今隣で流れている曲は、良人からは「歌声がなんとなく鼻につく」と評された人の歌

良人との心の距離、寂しい気も少しはするが、安心の方が強い

ああ、別の人間なんだ、と、安心する

 

 

ネイルはほんの少しだけ青みが強い水色

白色でぼやかされて、その鮮やかさが膜で覆われたように遠い、そういうみずいろ

そういう色、なんというか知ってますか

 

 

 

ぼやきも独りごちも、それ以上のものには昇華しない

ずっとそう

だからこそ、面と向かって、話すんだよ

 

 

読解も解釈も、それに臨むことが、理解されたがっているその対象に″あてられて″の受動であるにもかかわらず、その″あてられ″を受けて頭を働かせようとする点で、能動である

 

伝える、にも同じことが言えるかもしれない

伝えたいという内からの衝動が発生し、それが己に向けられ、それに突き動かされ、受動的に、文字やことばに表し始める

けど、じゃあ書くぞ、言うぞ、と、その瞬間にペンを握ったり、喉を開いたり、スマートフォンのノートアプリだかこんなブログアプリだかを開いたりする、その瞬間は、決意があり、そのときは能動であるのではないか

 

だからどうということでもない

「対話」も「議論」もかたっ苦しいなら、お話し、とかでいいんだけど

そもそもの言語を支える基盤が違う相手には、どんな語をあてようとも、同じなんだよな

 

 

 

とはいえ

解釈も伝達も、全て、その主体自身が他者の存在を認めなければ、成り立たない話ではあるのだけど

この話の適用範囲は人が思っているほど広くもないし、ある意味で″真に″普遍的なこと、言葉を扱う、生きている誰にでも当てはまることはぜんぜん言えていないのだろう

他者が他者でない世界に生きることは、そんなに珍しいことでは、ほんとうはないのだ

 

 

 

 

 

 

私信1

きみ、よく、「こんなの誰が読むの」と書きながらブログを都度更新しているが

読めないブログっていうのは、これくらい背後の文脈がさっぱり読めない、ことばの束のことを言うように、私は思うよ

あとぼくはきみのあり方がそこそこ好きだよ

 

私信2(複数人に対して)

いつもご心配をおかけしております、また連絡します、話でも聞いてやってください

 

私信3

 

 

 

 

 

謎の私信コーナーおわり、そんな感じ

 

 

この場はコンテンツでもなんでもないので、ノートの殴り書きみたいなものを置いておく

 

眠くなったので目を閉じてみる

おやすみ

 

一行目が全てです

インターネットに書き物をしたくなるのは大抵調子が悪い時だ

 

アルバイトには行けず、事務作業だけなんとかこなした

明日はやっとアレルギー科に行く

 

苦しい

 

昨日は寝付けず、何度も起きて

身体が強張り、全身冷たくて

それでもどうにもならなくて

ずっとずっと、天井と瞼を繰り返し見ていた

 

 

この間の企み、というか騒動を起こしてしまった一連の出来事は、いよいよ自分に愛想を尽かしたから、そうなったのかもしれない

 

 

自責がすごい、は、もう話したな

どうしたらいいんだろう

人のことを好きでも、大事にしたくても、それでも、この世界に生きている自分が嫌いだからいなくなりたい、そうなってしまう

なにもうまくできないからそう思うのかもしれないが

 

 

まあ元気ですよ

見かけ上、ちゃんと元気です

ダメになったらしかるべきところに電話して、一回全部休みますし

とかなんとか

 

そんなこと言ったって仕方ないのにね

全部仕方ないのにね

 

人の話を聞くということは、その人が話したい時にしかできない

私はすぐに何でも話したがるから、それが分からないから、いつも間違えるのでしょう

そう思った

結局通常営業、それはまあ嘘だが

アルバイトから帰ってすぐに倒れて、意識が戻ったらこの時間

過労と睡眠不足

しかし明日も朝から労動

 

色々回ってないが、それでも諸々やってくる

少しずつ、なんとかこなさなくては

 

微睡がそこそこ好きだ

しかし最近は、意識がなくなるか、微睡も感じずひたすら頭痛がするか

寝る直前はそんな感じだ

 

aikoの「しらふの夢」という曲がある

心地よい微睡が続いているときに見るような夢、そんな印象を受ける曲だ

一時期、ワンルームに住んでいた頃に、寝る前はずっとこの曲をリピートして聴いていた

同時期発表の「磁石」なんかもよく聴いていた

 

 

あの頃より、aikoばっかり聴くというわけでもなくなったが、それでもたまには聴いている。

木星」とか。

 

ほかの、好きな、大事な、特別な曲は、たまに頭に流れてくるから、その時に聴く。

 

 

 

さまざまなことが面倒になってきている。

今日も調子はしっかり悪かった。

明日も誤魔化しながら、なんとか働けるだろうか。難しいかな。

眠い。

 

がんばろう、おやすみなさい。

 

 

追記

3.11だ。

いまだにその日を覚えている。

その場で、自分ごととして捉えられなかったことを思い出し、苦い気持ちになる。

 

「そう考えるなら、これからどう動くか」の表明は、他人からの評価、目が、怖いので、特に言わない。

自分ごととして決められるといいね。

遺言というには少し稚拙すぎる、という題だった

2/23(金)、Twitterの、現在は非公開になっている(そして現在はアカウントごと削除した)私のアカウントの方で、自殺を遂行したいという旨の投稿を複数回行ったことで、それを見た知人のうちの一人に警察に通報されました。

その時私は、携帯を機内モードにしていたため、(ストーカーの件などで私や夫の名前と電話番号の情報を警察が既に持っていたために)警察からかかってきた電話がとれず、それによって夫の方に電話がかかってきたそうです。

その事情を知らないまま、夫が警察と電話していることだけを家にいるときに認識し、そのまま勢いで家から出ました。

友人と電話したり、LINEしたりしましたが、諸々のタイミング(警察からの電話がキャッチで入ってきて、友人と話し続けることが難しくなったり)などが重なり、なんだかもう、生き続けるために頑張ることが難しいと思いました。

そのため、警察からも夫からも、数十分おきに何度も電話がかかってきていたのですが、それを全て無視して、始発で福井の東尋坊に向かいました。

 

東尋坊は、行く途中で調べたのですが、「確実に死ねる絶壁」みたいなものは実はなく、高さとしても周りの木や崖の角度などからしても、生存率がそこそこ高そうに見えました。

(おそらく『完全自殺マニュアル』からインターネット等に流布された情報である、「20〜25m以上ないと、飛び降りても確実には死ねない」というのを、半ば私は信仰しています。大学の研究室は5階にあるのですが、よくそこの窓から乗り出して、下との距離を確かめるのですが、そこは20mの高さはギリギリないことを知っていて、その感覚に基づいて、距離をなんとなく推測していました。

ちなみに、この日保護された警察に聞いたのですが、「確実に死ねる高さ」自体は、一応データとしてはあるみたいです。逆に「確実に死なない高さ」はないという話もされました。20cm上から落ちても、落ち方がまずければ人は死ぬ、という話です。)

 

数時間、誰も周りにいない、もう一歩で崖から飛び降りられるところに座り込み、考えていました。

 

できそうか、できるか、できたとしても死ねるか、駄目だったらどうするか、痛いだろうか、寒いだろうか、それでも終わることができるならそれでいいのではないか、終わりたい、怖い、死にたい、ここで飛ばないとまた「ポーズ」だと思われる、でも死ねなかった時にもまた、「ポーズ」であったと言われることを含めて頑張らなくてはならない、それでもやれるか、他のもっと確率が高そうなところでやるか、でも今飛べるなら飛んだほうがいいのではないか。いけるか。痛いだろうな。寒いだろうな。

怖い。

 

 

死なないで頑張る、という選択肢も、生きるか死ぬかどちらの方が辛いという考えもわかず。

ひたすら、失敗した場合のことを考えていました。

 

死ねませんでした。

片足だけ、崖から乗り出したりしてみましたが、それでも、最後までできませんでした。

 

 

しばらくして、また警察から電話がかかってきたのでそれにやっと出て、そうして現地の警察に保護され、数時間話を聞かれ、迎えにきた夫と京都の自宅に帰ったという次第です。

 

 

 

 

以下からは、遺書まがいのものとして書き殴り、インターネットにあげようかどうしようか、と考えていたものです。

今となっては伏せておいた方がよさそうなところだけ伏せて、ここに載せます。

(色々書いてますが、今ここでこれを公開するのは、誰かを責める意図をもってのことではありません。)

 

実際のその場に行くまでは、この文章をインターネットにあげたり、(これ自体あげないにしても何かしらはインターネットに残そうと思っていたり、)キャッシュカードを暗証番号を付して身内に送ったりという算段をしていましたが、その場に行くと全部、どうでもよくなってしまいますね。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 

よく舐められる人生だったなぁと、思いました。

 

大学の人権委員会や人権相談窓口での相談、ハラスメント申立への対応にしても

◾️◾️◾️◾️◾️(であるというのは、こちらのでっち上げだそうですが、◾️◾️◾️◾️◾️規制法にのっとって警察からの口頭注意を複数回受けている方)の、◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️にしても

専門周りの、研究科の指導教官、◾️◾️◾️◾️◾️の指導教官、間に入った教員、昨年ハラスメントガイドラインを規定した某学会の現会長前会長のハラスメントや性加害への認識にしても

 

保育園から高校に至る、田舎でぼんやりと輪郭のない、曖昧な仕方での全般的いじめに参加した同級生や先輩後輩、その親族、また教師たちにしても

 

金銭的な援助を兄弟のうち私にだけしないことをうやむやにし続けた親族にしても、こちらを明確に邪険に扱う一部の親族にしても

 

大学に入ってから勤めた数々のアルバイト先の店長や従業員にしても

 

今までの交際相手や、親密な仲になった人間たちにしても

 

誰も彼も、私のことを舐め腐っておりました。

 

助けてくれた人もおりました。

有難きこと、と思っています。

上に挙げた人たちも、たくさん助けてくれたことがありました。

憎むところばかりではありません。

 

しかし、一人たりとも、「じゃああなたを救ってあげよう」と名乗り出た人はいませんでした。

みな口を揃えて、「私にはここまでしかできない」と言って、一番責任のかかることは触らぬまま、他者に任せようとしました。

 

 

 

 

ここまで書いて、これが最後の文章かと思うと、あまりの駄文に泣けてきました。

こんなことしか言えない人生だったか、と。

 

 

 

 

文章で書いても口頭で伝えても、おそらくほとんど、他者にはわかってもらえない事柄を書きたいと思います。

私は「理解されること」に執着していました。

訳のわからぬまま、私を処理してくれるなと、ずっと思っていたのでした。

だから、伝わらないでしょうけど、理解可能性をここに展開します。

 

 

 

じっくりじっくり、死ぬことの準備ができてしまっていたのだと思います。

心が削られ、その削り節を見ても何も感じなくなるまで、十分な時間を持ってしまいました。

痛みも悲しみも感じなくなり、その上で希望を抱かなくなることにも、惨めさを感じなくなりました。

自分の生の価値、意味、自分の存在の大事さ、「生きたい」と願うこと、みな、手繰り寄せることができなくなりました。

 

私が生きることにも、死ぬことにも、何も意味を感じなくてよいのだと、そして今がその状態だと、思いました。

「もう限界」などといった、切迫した気持ちは湧きません。

淡々と、実行の準備を進めています。

 

記憶も、全て薄れてきました。

今までは、この健忘によって、騙し騙しやれてきたように思います。

そして、そうやって「無かったこと」にした、自身の苦しみ、悲しみ、絶望、「すべてやめたい」という願望、そういうもののツケを払う時がきたのでしょう。

 

今のところ、怖くありません。

足元にそれが迫ったら、やっと実感できるのでしょうか。

 

 

ここまで書いて、特定個人に、何かを伝えたいという気持ちがないことが確認できました。

誰かに、「分かって」ほしい。それだけでした。

 

あぁ、でも、私と関わった人で、私のことで、この先苦しみや後悔は、そんなに抱いてほしくないなぁ。

そりゃあ、少しは悔いてほしいとも思うけど。

もういない人間のために、生きている人間がそこまで心を割かなくてもいいよ、と。

周りの、生きている別の他者に、悲しいことが起こらないように動いてあげてください。

個人へのケアとしても、制度や風潮の是正にしても、世界に対する認識にしても、なにか、変えてやってください。

 

それは、ほんとうに思うことです。

 

 

 

しかしこんなふうに最後まで、ちょっとした「いい子ちゃん」をしていると、結局のところ、誰も、何も、変わらないのだろうか。

誰も彼も、私がいた時と同じで、「自分にそこまで責任はなかった」と、思うのだろうか。

それは悲しい気もするけれど。

 

それでもいいか。私の命、生、人生に、価値などないのだから。

 

 

「病んでいる」と私を馬鹿にしてきた人。

「それでも自分のことをまずはなんとかしないと」と、暗にセルフケアでなんとかするようにと窘めてきた人。

「お前が全部悪かった」と、ここまでの事態になっても怒り狂う、もしくは嘲る人。

 

本当の意味では私を愛してくれなかった、◾️◾️◾️、◾️◾️◾️。

 

どんな言葉を、態度を、行動をこちらが尽くしても、決して、私のことが分からない人。

そう言ったとしても、「お前がこちらを分かろうとしないからだ」となおも責め立てるだろう人。

私がそう返答を受けていつも絶望していたのは、こちらの「分かってほしい」をとりあえず受け取ることを、どこまでも拒否されていると感じるからです。

卵が先か鶏が先かみたいな話を持ち出して、まずは自分をちゃんと受け入れてくれ、ばかり、言わないでください。

私は、受容されていると、本当の意味で誰かから感じたことは、一度もありません。

「自分もそうだ」とか、反射で返さないでください。

私をもう、追い詰めないで。

 

 

悲しかったです。痛かったです。苦しかったです。

ずっとずっと、死にたかったです。

「死にたい」と言うたび、「どうせ死なない」と言われ、死ねないことに苦しんでいました。私が死ぬ死なないということが、ほんとうにどうでもよいことなのだ、と、とても辛かった。

 

 

でも、もう、終わるのです。

誰も私の人生に責任をとってはくれないし、大事にもしてくれないので、私だけは、私のしたいようにさせてやろうと思います。

 

今までお世話になりました。

皆様の益々のご活躍をお祈り申し上げます。

 

 

 

 

生きたくても生きられない人がいる。

私の「死にたい」なんて、どうせ自業自得だろう。

もう、それでいいです。

私だけは、今だけ、最後だけ、私を愛してあげようと思います。

 

 

 

 

 

ーーーー

 

 

以上です。

 

 

 

 

 

 

 

付記

特定個人の知り合いのうち、自責しそうな友人の顔が浮かんだので書くが、これはあなたを責める文章では全くない。本当に、書いていたその時も、そのつもりはなかった。あなたが自責する可能性があると頭では分かっているのに、なお現在これを公開する私のほうがむしろ、恩知らずの馬鹿野郎である、申し訳ない。

前も伝えたが、そしてあなたもその感情を理解してくれるものと勝手に期待してしまうが。

労られていると分かっていても、他者全般に絶望することがあると思う。そしてそれは、自分に対していつもよくやってくれている個人個人に対しての恨みには、本当のところ接続しない。それは結局、世界が自分を拒絶している(ように思える)ことへの恨みなのだから。そういうものです。

 

 

付記の付記

くどいな。付記の感想にも近い。

結局、なんとかして、書き手の意図を理解してもらいたくてもがく自分は滑稽だし、何らかの倫理的道徳的な部分の欠落があるように思う。

 

そしてそれに連関して、思うことは次である。

浅い浅い、人に分かりやすそうな話を、自分にとっては″事実″なのだろう、そういったストーリーをこさえて、なんとなく共感してもらった気になることで、自分の核心が癒えるなら。

それほど幸せなことはないな、と、ある他者への皮肉を感じながら、思った。

 

しかしそれは羨望でもある。そういった角度での馬鹿に、愚かな人間に、私もなりたかった。

それだけ馬鹿なら、多分今の私の人生よりは、呼吸するときに入ってくる空気が口の中や喉や肺に刺さらずに生きていけそうだ。

 

警察にも言われたから、そう思うのだが、どうにもならない人間のことは、ハナから非存在者だったとして、現在と未来に接続する己の生の世界を編む際には構成要素から外せばよいようだ。

 

これから自分が、そもそも生き続けていくかどうかなど、今の私には考えられないが、少なくともそのようには、当面は考える。

 

ほんとうにおわり。

solitude

大学学部1年の時に、建仁寺ではじめて白い桔梗を見た
はじめて花を見て感動した
桔梗は紫色が主流だとのちに知った
2年の時にまた建仁寺に行った時には紫の桔梗を見た
それから、幾らかの機会に、あちこちの寺院や植物園などに、桔梗を見に行った

 

今、紫の桔梗のほうが、見慣れたせいかしっくりくる
桔梗みたいな紫色のことも好きになった
たまに、桔梗やその色を思わせる小物や、お洒落に関するものに惹かれて、好んで買うようになった

 

 

爪が変形してしまい、ジェルネイルをしばらくお休みすることになった
それでも爪の色が少し痛々しいので、まだ負担が少ない(変形に響かなそうな)ネイルポリッシュならいいかもしれないと、前までよく買っていたブランドのお店に行き、紫のネイルポリッシュを買った

 

前まで買っていたのは、血のような赤で
私はそれまでネイルポリッシュは赤しか持っていなかったが、それを見つけてからはそれしか買わなくなった
そのブランドは、それぞれの色に少し捻った名前をつける
それには″Double suicide″とつけられていた
厨二くさいと苦笑しつつ、そのくせ結構気に入っていた

 

今回紫を買ったのは、まだその赤色が家に残っていたからでもあり、また紫をつけることを良人が望んでいたからでもあった(良人の誕生日は2月で、誕生石がアメジストであることもあって、紫が好きだから、とのことだった)

並ぶ複数のなかから、一番イメージに合う紫はこれだろうな、と手に取り、そのまま会計をお願いした

 

その後、そういえばこの色はどんな二つ名をつけられているのだろうと気になり、そのブランド名と色番号を検索した(瓶や包装の箱には書いていないのだ)

 

"solitude"だった

 

他の色のほとんどは、果物の名前やら可愛らしい形容詞やらが使われているのに、どうしてこう、私が選ぶようなやつだけピンポイントで、こんな癖のある名詞を付けられているものだろうかと苦笑した
とはいいつつ、ブランド名からしてなかなか毒があるので、仕方がないのかもしれない(お気づきの方もおられるかもしれないが、″Addiction″である)

 

しばらく一人で薄笑いして、途中で合流した良人にもそのネイルの名前の話をして笑って
爪に実際塗ってみて、眺めて

 

愉快な、滑稽な話だな、と思った

 

色んな縁や、事情や、人が混ざって、この色を買おうということに辿り着いたというのに
行き着く果ては、孤独かよ、と

なんか私らしいな、とまた一人で笑い
こういうことを考えるのがいまだに厨二くさいんだよな、とまた一人で呆れ笑いをした

 

 

 

縁が混じれど、編み上げど、そのうちの何かが断ち切れ、何かがずるずると未だ尾を引けど

私の行き着く果ては、孤独であると

 

それはそれで、よいのかもしれない、と、思うのは

私は最後には、独立自存の″私″を得ることを、どこか願っている側面があるからかもな、と考えるからで

その考えを自分で眺め、「少し物事にストーリーを読み込み過ぎではないか」と窘めたくなる

その自分にもまた、「自己のメタ視ができていると思い上がるなよ」といじめたくなったり

最後二つの流れは、調子が悪いと必ず出てくるものなので、そんなに重視しなくてもよい場合が多い

これもメタ視もどき

 

 

 

そうしてふと、安井金比羅宮のことを思い出す

あぁ、多分あそこのお参りでしくじったな、と、なんとなくだけど、妙に確信に近い感覚を覚えた

もう一度、今度は昼間にでも行って、ちゃんと段取りを踏んで、祈ろう

縁、を望み、断ち切り、紡ごう

 

そうして最後には、なにかしらの意味で、孤独となるのだろう

それがちっとも恐ろしくないのは

なんでだろうね

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……インターネットで書くのはここまで

あとは然るべき、伝えるべき人に、伝えたい事柄を直接伝えます

おやすみなさい

 

星は降らねど

僕はインターネットでまとまった文章を、かちっと書くことはほとんどない

大体のものが、僕以外には何を書いてるかもそもそも分からないような、文章にもなっていないもの、単語を書いたメモ用紙を壁に貼り付けているような代物となっている

それは大抵の場合、こういった文章は、その時眠れないからつらつら書いているだけであって、公開することはなんというか、変な言い方だけど、副産物のような立ち位置であるからである

それもあって、自分でさえ、数ヶ月後に読み返してみると何を書きたかったか読み取れない部分もままある

 

 

人と何かを楽しんだ時の余韻だとか、沸き起こる自分の感情の手触りだとか、そういうものを保存しておきたくて、文章を書こうとすることもある

しかしそういった動機の場合、九分九厘、書き始める前にペンを置く、もしくはスマホのアプリを閉じる

それが不可能であることを知っているからだ

保存はできない、みるみるうちにそれらの色彩は溶けて空気の中に消えていく

それをかつては「もったいない」と、ギリギリしていたが、今はそれも、怖くなくなった

 

今得たものを思い起こすことも、いつかどこかで訪れるし

全く同じでなくとも、同じように、「大切にしたい」と思える感情を、また得るだろうと信じられるようになったからだ

 

すぐに「思い出だけで生きていこう」という思考に陥りそうになる

いつか壊れるかも、失われるかも、もう二度と手に入らないかもと、不安になるからだ

 

でも、きっと大丈夫で

それは、どう転がろうとも大丈夫であろうという、意志でもあるのだろう

 

 

それらをふまえ、書きたいことを書こう

 

今ここで、自分が生きていることを、真正面から肯定されて嬉しかった

頭が壊れそうで、これを思い出して今は胸の辺りが弾けそうだが

とにかく、嬉しかった

 

「思い出だけで生きていける」というような気持ちになりそうだが

そんなふうに、一回ぽっきり言えば完了する言葉としてでなく発せられたことがよく分かっているからこそ、こんなにも重みを感じているのだろう

 

 

明日明後日も、生きられますように

神様や、それらの類が、もしくは誰かの悪意が、私から◾️◾️を奪いませんように

 

 

おやすみなさい

 

ちなみにこのブログタイトルはそんなに意味がなかったりする

前の記事で自死について書いていたらしい

寝る直前だったからそのこと自体忘れていた

それもまた薄情なのかもしれないが、会ったこともない人で顔も声も書き物も知らない人だから、逆に変に執着したり想いを馳せようとすることの方が無礼かもしれない

 

 

自死を自分はしないだろう、と、前の文章で書いた

けど、やっぱり、頭の中で自分を殺すことを妄想することは気持ちいいので、ついついしてしまいそうになる

 

この間の夢では、友人を長年苦しめている、実在するクソ野郎をぶん殴って半殺しにしようとしていた

「こんなことすべきじゃない」と頭でずっと考えながら、「どうしてお前は!お前は!」とか叫びながら殴ってた

人を加害する夢を見るのは、覚えているものではほとんど初めてで、起きてから呆然としてしまった

夢は願望の現れ?と言うこともあれど、別にその当の人物にそこまで思い入れがあるわけでもない

(この人にもまた、私はそんなに面識はないのだ)

 

じゃあ何かの代替なのか、とも思うが、あまりしっくりこないのでそういうわけでもなさそうである

 

 

 

自分を殺そうとして、複数人にぼこぼこに殴られるのをそのままにする夢ならよく見るが

まあ分からないものは分からない

 

 

 

今朝は比較的安らかな夢を見ていた気がする

ずっと眠っていたいと思って何度も何度ももう一度寝ようとした

でもどんな内容だったかは覚えていない

 

 

昼過ぎにあった事柄を引き摺って、ずっと胸が苦しい

吐きそう

でも寝たら少しは治るはず

寝ようね

 

 

その事柄に関連して

もう何度もしている説明をしていたら、改めて自分は地獄みたいな場所にいるんだなと思った

その最中、「そんなものなのだろうか」と今まで思っていたものが、よくよく考えれば非常にイカれていることも改めて、やや新鮮な気持ちで感じた

やっぱり狂ってるよな、なにもかも破綻した上で、自身を素面だと疑わないのは、本当に核たる部分まで侵された狂気なんだろうな

恐ろしいことだ

 

 

背筋が冷える、寝ましょう