かつては、私の記憶に狂いがなければ

思いついたままにつらつらと。たまに記事が消えたり復活したりします。

地獄の季節

これで50件目の記事だそうです、このブログ

 

ひえっ

こわっ

深夜の怪文書もここまで溜まるとまた別様の怖さが演出されますね

 

 

私は日記をたまに読み返します

ここではない、自分しか読まないアナログの方の日記も読み返します

 

考え方が変わってきたな〜とか、似たようなことをこの時も悩んでんな〜とか、そういう感想を抱きます

ごく凡庸な、そんな感想を

 

 

人への「みえ」を気にして、ものを考える癖が、少しずつ抜けてきている気がします

以前はかなり病的で、それこそ自分自身が頭の中で考えているようなよしなしごとを、「正しい/正しくない」で常に精査されているような気がしていたのです

誰が精査できるんですかね、そんなもん

誰もできるはずがないのに、どうしてか、私の考えは、私の言葉や表情、行動、もしくは「私は忘れてしまったけれど周りはしっかりと覚えていること」などの存在やその内容などにより、周りから透けて見えているのではないかと、常に不安がっていた時期が、私にはそこそこあります

今はだいぶよくなりました

他人は私の頭の中をのぞいたり、ましてやその中身を審議したりできません

 

よかったよかった

 

 

 

だからこそ、近年に、日記等の中で書かれた言葉が、ちゃんと「私が考えて、そう思ったからそう書いた言葉」であることを確かめて、ああよかったなと

そのうえで、今はそんなふうに考えないなあとか、今もそう思うなあとか、そんなことを考えられるようになりました

 

うれしいですね

自分がこのように考え「なければならない」から、少しずつでも、距離が取れることは

 

昔は、考えなければならないのに、そのように考えられない、もしくはそれとは別なようにどうしても考えてしまうというときに、ひたすら自分を責めていました

そう考えなきゃいけないのに、そう考えられてない

これが分かっていなきゃいけないのに、私は分かっていない

こう感じなきゃいけないのに、感じられていない

だから私はだめだ、出来損ないだ、欠落している、社会不適合者、はみだしもの、死んだほうがいい

そんなことばっかり

 

 

当時の言葉を辿れるものは、随分と捨ててしまいました

捨てていなくとも、どこに保存しているかも忘れてしまっているものがほぼ全てです

 

そんな過去の自分がいらないとも、消してしまえとも思わないけれど、十字架みたいに背負ったり、かさぶたを剥ぐように自分の傷を再度えぐったり、それらを「しなくてはいけない」こともないかなあと

また、その当時の自分を顧みたくなったら、顧みたらいい

その時までは、しなくてもいい

 

 

 

生きていて、世界を憎まないような瞬間を増やしたい

自分を憎むのも、責めるのも、傷つけるのも、「しなくてはならない」のでやっている時には、少なくとも私の場合には、世界に対しても本当はそうしてやりたい時であって

自分のことを理不尽に扱う周りを、世界を、本当はものすごく憎んでいて、怒っていて、傷つけたくて仕方ないのに、「こんな私だから、それほどの目に遭うのだ」と思うことで、そうして自分を傷つけることで、どうにかこうにか、衝動的に大々的に全部をぶっ壊さずに済んでいる

一部分では、自分はそういう人間なんだろうなあと

 

だからこそ、世界を憎みたくない

人を憎みたくない

何かを憎みたくない

 

 

憎むことと、問題視して行動することは別物なので、後者までもやらないというわけでは、もちろんないですけどね

でも、私の「憎む」は、命を奪ったり、ぐちゃぐちゃに傷つけたり、そういうのにつながってしまうから、やだなと

憎みたくない

 

 

 

自分のことを完全に棚に上げて、とても都合よく「責任」を帰そうとする、そういう人もいる

自分の人生や、目の前の現実のことをほっぽり出して、ただただ、ただただ、それのみを、熱心に、執心して

 

自分以外の人がどうであっても、自分に利害が直接発生しない限りは、口を出す権利は全くないので、だからどうのこうのではないけれど

 

こんなことを書いていて、ふとそういうことを思い出した

 

 

 

何を私が思おうとも、私は私の生き方についてしか、どうにかこうにかはできないので

私がどうにか、「よく」、また「楽しく」生きるにはどうしたらいいかということを、そのためには何についてがんばっていけばいいか、考えていけばいいか、逆に気にしなくていいと思えるようになればいいかを、模索して追求していくしかないんだよなあ

 

 

諸々の精神障害だけで、身体はまだそこそこ動く

今日明日食うことに、屋根のある場所で寝ることに困っているわけでもない

有難いことだ

 

生きていくしかない

生きていこう

 

 

明日も病院だ、そして仕事だ、がんばろう

おやすみなさい

故郷

望郷だなんて全く言いたくない

故郷がちょっとでもいいものだと言いたくない

 

 

 

母校(高校)の生徒さんたち一行が弊学(大学)に研修に来るので、お手伝いをしてました

私の担当は「(OBOGとしての)研究紹介」と「構内散策の引率」

なんとかどうにかやりました、灼熱の中

 

 

高校の引率の先生側で、三年間担任だった教師が来ていて

あれこれ話したりしました

あちらには、私が今年で卒業予定だと伝わってたらしく、なんか前祝い?でボールペンを頂きました

 

 

普段は気にしていないが、こういうことがあると、高校のことや田舎のことを、少し思い出す

そこでの同クラスの人たちの現在とか

みなさん普通に、エリートとしてご就職しておられたりするので、ヤクザ者をやっている自分からしたら「私はこんなザマですみませんねぇ」といった、ちょっと卑屈な気持ちに、今まではなっていたのだった

お金だの、キャリアだの、社会的身分だの、持ち家や自分の家庭など、人々がすぐ思いつくような形での「幸福」は、私は特段もっていないしね

(一応結婚自体はしているけども、人が思うようなアレじゃあないし)

 

 

それでも、思ったよりも、しっかり心理的距離が既に取れていて

前に思い出した時よりかは、卑屈な気持ちも随分消えていた

どっちにしろ、ど真ん中で私が欲しいものは、そういうものではないっぽいし

じゃあいいか、と

 

 

あんだけ、もうどうしたって死にたいと思っていた、あの田舎から出てきて十年近く

一周回って「変わらんな」と当時の担任には言われてしまったが、まぁそれならそれで

担任の言葉が嫌だったわけでは全くないが、とはいえど、誰が私の何をみて、何を知っていて、どう評価しようとも、関係ないっちゃ関係ないしな

人から見てどこかが前とは変わっていようが、変わっていまいが、実際のところどうであろうが、今の私が私のことを好きになれる理由が増えたなら、嫌いにならないですむ時間が増えたなら、なんだっていいのだ

 

明日のこと、来週のこと、来月のこと、博論までの締め切りのこと、これからのことを考えたらいいよな

どうせ理不尽はどさどさ降ってくるけど、いつものことだし別にええだろう

 

みんなくたばれ、ごみみたいな世界だと、何度も何度も思うけど

希望なんて、おとしどころなんて、見つけないままにしておいてやる

「そんなもんあるかないかわからんね、一生ないかもね」のスタンスで、いけるとこまでいってみよう

 

 

今日こそ少しは寝られるといいな

おやすみなさい

書き下ろしほやほやの書き散らし

メンタル不調が続いて久しい

 

しかし原因はわかっているし、なんつーか、まだ、楽だ

 

昔よりもずっと、酷いことが起こっても、なんやかんやでやれている

 

何かしら他人がおかしいことを言ったりやったりして、こちらにぶつけてきたり配慮なくそれを四方八方にぶちまけている時に、ひでーなこいつ、と、まともに思えるようになったからかもしれん

 

 

精神科で、トラウマ治療が進められている

あと、ストラテラに加えてコンサータも飲み始めた

それらの兼ね合いもあって、ちょっとだけ抗不安薬の類の量を減らした

 

父方の祖父の初盆についても、母の骨折についても、できる範囲でどうにかこうにかやっている

非常勤業務も、よく分からんままに降ってきた仕事も、イレギュラーな外交も、あと私的な人とのかかわりも、どうにかこうにか、やっている

博論と論文投稿と、翻刻作業と語学の勉強は、はもうちょっとどうにかしたい

 

うまくやれていると思っているものにしても、一部はうまくやれていないかもしれないけど、全部が全部完璧でなくてもいいし、そもそも完璧だったことなんざねえんだからいいや、という、ある種の雑さを導入しつつある

 

こういうのも、不安とか、自分への過度な期待とかに押しつぶされないためには、ちょっとくらいなら、人に押し付けないなら、表に出してもええんちゃうの、と思ってる

あかんかもしれんけど

 

とはいえ、それを咎める人がいたとして

俺のことを、そういった方面から糾弾してくる輩なんて、基本的にはこちらが相手にするほどには深く考えてないのだから

というのも、他人が何を考えて生きているのかについて思慮を働かせずに、自分の尺度でものを言っても自分はいいと思っているような連中なのだから

まあ、とりあえずはスルーでいいやろ、と

 

それでうまくいかなくなったら、その時に私が痛がったり後悔したりしたらいい

 

とはいえ、自分の不幸やら責任やらはまだ負うことができるけど、他人を巻き込んで不幸にしていたら目も当てられない

なんだろうね、どうしたらいいんだろうね

 

他人を傷つけたことで、自分が嫌われたり孤立したりすることには責任が取れるけど

他人の傷つきを背負うことはできない

癒そうと躍起になることはできるかもしれないし

そういう態度を示し続けることが、ある種の癒しをもたらす面もあるとは思う

 

思うけどさ

 

全部がぜんぶ、「私のせい」と考えるのも、考えさせるのも、考えさせられるのも、結局はそんなにいい方に進まないのではないか

 

 

あと、たぶん

他人の人生を救ってやろうとか、自分が何かをしでかしたから、その分は背負う義務があるとか

ふつーに、烏滸がましい考えなんだろう

 

その人自身が背負っていないその人の人生を、他人の私が背負うのは、越権行為じゃないですか

理不尽なことはままあるし、それを背負わされるのは不当じゃないの、本来ならお前が背負えよ、と思うようなことなんざいくらでもあるけどさ

そして、「こいつさえいなければ」「こいつがこんなことさえしなければ」と憎む気持ちだって、私にも十分あるし

ということは、私から何かを受けた(と自身では思っている)誰かも、それを思うことがあるだろうし

それを握りつぶす″べき″だと言われる筋合いはどこにもないのだろうけども

 

憎しみが湧き続ける限りは憎しみ続ければいいと思うし、報復したいだの復讐したいだの、思いたいだけ思えばいいのかもしれないけれど

(少なくとも私は、憎しみを抱えていること自体がひどく苦しいから、一刻も早く憎しみを感じなくなるように、自分の考えやら感じ方やらを変えてしまおうとするけれど)

 

 

 

その人の人生を、他人に背負われないとどうにもならないようなものにしてしまうのは、そのように規定してしまうのは、その人自身の何かを奪ってませんか

なんか、さいきんはそんなことを考えます

 

 

救ってもらいたいけど、救われたところでこの人生を生きるのは、私であるし

それは逆にも当てはまるのではないか、なんて考えてもみるが

その考えが相手に適用されるかどうかも、相手が相手自身の人生をどう扱いたいかにもよるので

まあ、私がどう思ってるかだけで、決めつけられるものじゃない

 

煎じ詰めれば、こう考えている私と、同じようなことか違うことかを考えている各々の他者と、その都度そのタイミングその時期、そしてその人同士のやり取りの中で、だんだん見えてきたり、逆に「こりゃあ、この人のことは分からんわ」ということが見えてきたり、するもんなんじゃないのかなと、思うわけです

 

その都度かかわる個人との、その都度のやりとりのなかにしか、それこそ、「真理」だか、「事柄それ自体」だか、そういうものはないのではないですか

 

 

そんなことを言ってはみるのですが

一人相撲も引きこもりも、よいことはたくさんあるし、言ってしまえば「(それらを選ぶことよりも)対話が大事」なんてことは、普遍的にどこにいる誰にでも適用できる形では、多分言えないよね、とも思う

とはいえど、見かけた人が、もしくは近しい人が、それらを選んでいるように見えて、それによってしんどそうであるならば、

よりしんどくならなくなる方法として、対話とか、人との関わりとか話し合いとか、誠実な態度とかを勧めること自体は、

そうやって人に対して優しくあろうとする人の心の動きは、

棄却しなくていいとも思う

(書きながら、「これを書いているお前はどの立場だよ」というツッコミを、自分で自分に、ここで行っている)

 

 

普遍って、歴史や文脈を超越して主張できることって、真理って、まあ基本的にはめちゃむずいよね

しかしそれを簡単に放棄することも、おそらく人間として社会活動している限りはなかなか難しいよね

そんな感じの話

 

 

あー

何も考えたくないねー

 

おやすみなさい

どっどどどどうどどどうどどどう

少しずつ、少しずつ、分かってくる

 

分かるという言葉、全然使いたくないんだけどね、ほんとうは

 

この時期にこの大きさの不調かー、乗り切れない感じがあるな、と薄々感じている

 

今まで検討してきた、色んなあり方の、まあもうぶっちゃけてそうやって十把一絡げにしちゃうけど、色んな「逃げ道」が、頭にチラつく

 

 

変わんないねえ君も

 

 

でも歳を取った

寝れば多少治る

私はそれを知っている、信じている、信じていいことにもうしている

 

つまんない人生が嫌だった、なんて、こんなこと書くことすら、青臭くて、生臭くて、かなわん

 

 

つまらん、捨て置いておきたい、価値のない自分は、結局どこかに放り投げることができないままだ

つまんないな、こんな奴嫌だな、嫌い、ない方がスッキリしていて好き、まだそれあるの、もう十分だよ

十分何度もこねくり回して、ああやっぱり全部価値ないって話になったじゃん

だから、もう、気持ちが湧くとかどう感じるとか、そんなのはもうどうでもいいの

 

 

どうでもいいものなの

 

 

どうでもよくなくても、放置したまま一生触らなくていいものも、あるよね

じゃあそれでもよくないか

気にかけたり、たまに頭を掠めることはあれど

それ込みの、込み込みの私しか存在できないなら、もうそれでよくないか

 

なんにもなれない、ただ怠惰でしかない、無能力無価値な、ただ性格の悪い、自己嫌悪しかできない馬鹿で、もういいじゃんね

 

そんなこと書いてたら心臓が痛い

絞られるように痛い

本当は才能があって、頭が良くて、と、自分のことを信じたい欲が、まだ残ってる

それをぶちまけても楽になれないことも、そのことすらあけすけにしたところでただ虚しくて、また浅はかな自分が嫌いになるだけであることも

みな、みな、もうやったやつ

 

 

どうせ何にもできん

どうせ何も成せん

家族も友人も、大事な人を大事にすることも、さいごには、私にはできんのだ

どうせ、ね

 

 

 

その上でどうせ死なない

どうせ死なない

やめろと言われるまで今の身分もやめられない

奪われない限り、にんげんのかたちした肉体も権利も持ったまま

 

 

頑張っている人が好きだ

年がら年中頑張ってない自分が一番大嫌い、信じじゃえ、ゴミカス

そう思う

 

 

 

トラウマ治療がはじまったら、少しは楽になるといいなあ

 

期待しすぎ? そうかもね

おやすみなさい

意味なんかないさ

昨年の年末、紅白歌合戦の一件で、星野源のことを考える機会があった

中学か高校の時くらいから、なんだかんだ曲を聴いたり、たまにレコードを買ったりしていたが、ラジオやテレビをわざわざチェックするほどではない、そのくらいの距離感でいた、そういう歌うたいの人

 

地獄でなぜ悪い」はカラオケでたまに歌うくらい好きだけど、この一件について、この人はどんなことを考えていたのだろうか

ネットの中での憶測やら何やらを読んで、何か分かった気になるのはよろしくないなと思い、Kindleで買えるエッセイを全部買って、正月はそれを読んでいた(まだ帰国前だったので、Kindleで買えるものしかパッと手に入らなかったのだ)

 

結果、特に彼へのイメージが変わることは無かった

普段のパフォーマンスや楽曲、(私が見聞きする機会があるくらいには発信されている)メディアでの振る舞いと、イメージが変わらないほどの表現が文章でできているのなら、彼はエッセイが上手い人なのであろう

そのよしあしは、私には分からないけれど

 

で、なんでか分からんが、その時ちょうど、ツアーが久しぶりに行われることを知り

何となくの流れで、ファンクラブに入会し、ファンクラブ先行チケット抽選に応募し

なぜか当たったので、ライブのために北海道にまで夫と来た次第だ

 

 

ライブを観た

途中、少しだけ星野源が来る、真ん中にあるステージ?お立ち台?のすぐ近くの席であったので、その演出の際には彼の顔がくっきり見えたほどだった

 

おそらく私は広義のファンではあるが、狭義のファンではないので、「あぁ、彼は今、やりたくないのかしんどいのか分からんが、兎に角、やや無理しながらも、頑張ってこの場でパフォーマンスをしているのだなあ」と、彼の歌を聞きながら考えていた

 

 

ライブ後、ホテルに帰りながら、夫と感想について話した

夫はひどくあてられたらしい

というのも、今回の星野源の、ツアーの?アルバムの?、メッセージらしきものの一つが、「やっていることに意味などない」であるようで

それがかなり、彼に揺さぶりをかける仕方で伝わってきたらしく

自身の研究の意味のなさについて、かなり深刻に、彼は何かを感受したらしい

 

この人は元来、そういう感受性の持ち方をする人だったなと、半ば驚きつつ

観衆の一人に対し、自分のライフワークについてその考えを揺るがせる力をもつというのは、やはりアーティストというのはすごいものだなあなどと、どちらに対してもやや他人事のようなものを感じていた

 

 

結果、彼は色々唸ったり、私と話したりするなかで、「全てに意味はある」(ここでの「全て」と「意味」の、それこそ″意味″は要検討だろうが、あんまりそれを、あれこれ彼に聞く気には、この時にはなれなかった)と考えることにしよう、というところで落ち着いたらしい

 

 

一方私は、彼の感受性にもさることながら、「意味」の有無にこだわることに「ノレる」ことについても驚きを感じていたわけで

 

 

星野源も、「意味がない」ということを、かなり重く受け止めておられるようだったし

それにある種、共鳴したがゆえに、夫は色々しんどくなったようだし

 

そういうものなのかもしれない、人々にとっては

 

 

しかし私はノレんなあと

「意味」なんざ、そりゃないだろうに

意味がある、意味がないなんてことが、

自身の言動、ひいては生き方に関係するのかね、と、私なんかは思うのだ

 

 

だって、みんな、意味があるから何かをするのか?

意味がないと、やらないのか?

 

意味があるから自分が今それをやっているのでなく、

諸々の事情でやっていることを、続けるのが難しかったとして、さすれど続けなきゃいけない、もしくは続けたいという動機や意志がある

そういう状態になってはじめて、意味を求めて人は彷徨いだすものなんじゃないのか?

 

 

やりたいからやるんだろ

やりたいと思うのは、様々な事情や背景あってのものだろう

そこに、意味がある、「から」やるのだ、といった、因果だか連関だかが、必要なんだろうか

そのように常々自分が思っていることが、ライブの感想のやり取りの中で、改めて思い起こされたのだった

 

 

 

こんなことを考えるのも、私が、周りから見て、種々の面で非合理な選択をしており、

「なぜ、それを選択したの?」とよく問われるからだろう

ないよ、意味なんか、理由なんか、動機なんか

 

やりたいからやるんだろうよ

やりたいわけでなかったとしても、なんか知らん間にやっていたから、やっているのだろうよ

 

 

やめたっていいし

やめなくたっていいだろうよ

 

 

 

 

 

 

 

同僚も死に、祖父も死んだ

いつか父母も死ぬ

それでも、どうせ、私はその悲しみを受けて、そのまま死ぬことはできないのだ

できなかったのだ

 

同僚がくれた慰めを、お守りにして生きてしまっているのだ

彼はおそらく、とうに忘れていただろうそれを

それを、私は持ち続けて、なにかにつけて、頭に浮かべて生きていくんだろう、これからも

 

 

彼がそれを私にくれた、あの時あの場で、そんな「意味」が、込められていたのかよ

どうなるかなんて、その時その場の行動の中じゃ、どんなに頭を捻ったって分からないよ

 

意味なんかない

でも、この瞬間が楽しければいいなんて、少なくとも私は今、言わない

先の未来や目の前の選択に、意味なんかないというだけであって

いつのまにかなぜか握りしめていた、意味らしきものがあることだって、そりゃ生きてりゃあるだろう

 

それを「意味」として、大事に大事に、神棚に祀らなくったっていいんだ

 

 

 

どうせ死ねない

どうせ今やめられない

だからやってるし、生きている

 

そこに意味があると

思える瞬間があるならそれでいいし

それがなかったところで、特段どうということもない

 

別にやらなくてもよさそうなことをやっていたからって

他のことができるのに、わざわざそれをやっているからって

いちいち誰かに説明して、納得させなくたってよかろうよ

納得しなかったその他人が、自分の人生の責任を取ってくれるわけでもないのだし

 

なんでもやったらいいじゃんね

 

 

そんなことを思いました

感想文終わり

 

 

 

ロックスターは28歳で死に、人は30歳を超えると変われなくなる

同僚の訃報を受け取った

とても親しくしていたとは決して言えないが、数年来同じ研究室で一緒にゼミに参加したり、科研費関係の手続きで一緒に苦慮したり、東京の学会に一緒に行ったりする程度の仲ではあった

ひどく悲しい

 

私が愚かなので、という、どうしようもない言い訳を前置きに話すのだが

こんなに悲しいと思わなかった

こんなに、ショックで動けなくなるほど、悲しくなると思わなかった

 

二度とお話しできないということは、ひどく苦しいことだ

肉体が失われて、その人ともうどうやったって会うことができない、会うことを諦めるしかできないことは、耐え難いことだ

 

私は未だ、毎日会うような人を、死によって失ったことがない

だから、「何かの事情でなぜか会えないが、また会えるような気がする」という、直感的予感を未だ退けられていない

LINEを飛ばせば、また返事が来るように、どうしても思えてしまうのだ

 

私は現在留学中であるので、別れの場に参列することは叶わない

数年前に祖父が死んだ時も、火葬場には(親戚の諸々の、もう言ってしまうが「悪意」が働いたために)入ることができなかった

別れの場に同席できれば、死をもう少し、理解できたのだろうか

その人はもう失われてしまったと、理解できたのだろうか

 

このように問うことからも分かるように、人が死ぬということを、私は理解できていないのだと思う

というより、二度と会えないということを、真正面からほんとうに理解してしまったら、悲しみでこの先もう耐えられないんじゃないかとさえ思う

 

死後の世界や、甦り、復活、夢での邂逅などを、人が様々な形で語ることが、やっと少しわかったように思う

受け入れ難い

まともに受け止めてしまうと、明日自分が生きる理由を見失ってしまいそうだ

 

悲しい

 

 

日頃から仕事を沢山請け負っていて、万年過労気味の別の友人に連絡を取った

上記の話を中盤でしたにはしたが、基本的には終始、いつもと同じように、馬鹿みたいな話と、自分たちの仕事や書き物にかかわる話、人間づきあいや生き方の話をした

その友人の生き方に口を出すつもりはない、と伝え、その上で、私が、まだお互いが生きているうちに、話ができるうちに、話したいのだと言ったこともあってか、今回電話でした話全体を通して、いつもより特別なことが起こるということはなかった

それでいい、というか

自分もまた、インフルエンザで一週間以上異国の地で独り寝伏っている状態だ

自分のほうがいつ御陀仏になるかさえもわからない

それに、当の彼だって、本当にいきなりのことであったのだ

 

きっとまた話せるから大丈夫、も、ほんとうのところ、明日にだって通用しないし、

明日でなくたって、いつか人は死んでしまう

そう思うと、何か装飾をつけて、特別性を見出そうとせずとも、人との関わりは常にこれっきりかもしれないんだよな、などと感じ、

その上で、明日も、次回もあるかのように、友人とかかわっていけることが大事なのだろうと、直感的にではあるが、そう思った

 

 

人の死について少し考えて、(しかしこれはおそらく、同僚の死の直接的な悲しみから、ある種頭を遠ざけるがためにそのようなことを考えているのだろうと、半ば無意識、半ば自覚的な状態にある)その上で二、三思ったこともある

 

他の人が、「彼はまだ若いのに」「成し遂げたいことがまだあっただろうに」「精力的に活動している人だったのに」と悲しんでいた

しかし、若くなかろうとも、何かを成しそうでなくとも、一生懸命でなくとも、嫌な奴であったとしても

人が死ぬと、悲しいのだ

一方的に知っている有名人などの死については、私はまだあまりわかっていないが

(そして、様々な場所で様々な理不尽な理由で死んでいる人々のことを、私は考えられていないままでいる)

少しでも関わったり、ましてや楽しい時間を一時的に過ごしたことのある人間が

たとえ今は疎遠になっていたとしても、好ましくないあり方をしているなと思っていたとしても

死んでしまうことは悲しいのだ

 

そしてそれは、そういった生きている時の性質で足し算引き算されるようなものでなく、そもそも死という形で私たちから喪失されてしまうことそれ自体が、他の悲しみとは類比できないありかたで、悲しいのだ

 

 

それでも、死にそうだなと思うのに、どうにもしてやれない人が周りにいる

あんまりつらつら書くものではないが、なんというか、どんな類のものでも、誰によるものでも、言葉が届いてないな、と感じるような、そういう状態を想起してほしい

 

本当に個人的な、ある種乱暴な自説として、人は30を超えるとなかなか根本のところが変われなくなるものだと思っている

30過ぎていなかったら変わることができるとか、そういうことではないのだが

生育環境からの影響を含めた、自己の性質または気質の形成・発達と、それまでの自身の生き方による経験の蓄積がある程度溜まってきたがゆえに固定化される価値観や人との関わり方の型、バリエーションについて、30あたりになると固定化がある程度完了するように、なんとなく思っている

それゆえ、それらを新たに構築しなおすように促すことは、その人自身の否定に容易につながりうるものであるように思うのだ

それでも、電話した友人に対してもそうであるが、唯一無二の、代替不可能なパートナーの位置に収まるなどして、その人の人生のために自分の人生全てを潰す覚悟で関わらない限り、人の生き方やあり方に、他人がものをいう権利はないのだ

(もちろん、パートナーであったって、ほんとうのところそんな権利は有さない

でも、ともに生きる人間として、「私たちの人生について」という形で、関わることはできるかもしれない、と、今のところ私は思っている)

 

それでもきっと、もし死んでしまったら、私は後悔するし、とても悲しいし、きっとどうしようもなく、苦しむのだろう

それを受け入れる準備も身構えることももはやできない

悲しい

 

悲しい

 

人が死ぬことは、悲しい

 

 

それともう一つ、これは自分について

 

生きなくてはならない

 

誰に、そうすべしと言われているものでなく、

周りが悲しむから、といった理由でもなく、

自分で自分に、そう思った

 

とにかく、生きなくては

どんなに無様でも、何の成果があげられないポンコツでも、何もうまくいかなくても、常に不安や恐怖、他人からの悪意に晒されても、

肉体が失われない限り、生きなくてはと、思った

 

うまく言えないが、

同僚が死んでしまい、こんなに悲しく

その上で、私はその死を真正面から受け止めて、今すぐ死ぬことはないのだ

そうであるならば、生き抜かなきゃいけない

とにかく、そう思ったのだ

 

 

死後の世界があるなんて、どうしたって思えないし

会ったこともない、関わることも今後できないであろう同僚の親族について勝手にあれこれ願ったり、考えることも、もはや無礼であるように思うので(もちろん、苦しみが癒えることを願いたくなるけれど、それすら、相手の方々の事情を知らずままに祈ることは、どこか身勝手であるように思えてしまうのだ)

何を祈ればいいのかわからないけれど

 

彼がかつてくれたメダイのお守りを眺めて、

あの時彼が私に向けてくれた慈悲を大切にしよう、

あの時に彼が向けた祈りを、ちゃんと受け止めよう

それをちゃんと、たしかなものに仕上げるように、自分の生を生きよう

それが答えであるかはわからないし、そもそも答えなんてなくて、自分がどの段階でどれくらい納得できるかの問題でしかないのだろうけれど

それでも今は、そう思うことにした

 

 

 

それでも、やっぱり、悲しい

悲しい

 

たのしい地獄

地獄を生きている

多かれ少なかれ、同じような、別物のような地獄を生きている人が好きだ

好きというか、自分の交際関係を見渡すと、結局長くやり取りしている友人らは、みな何かしらの地獄を生きているようにみえる

そんなこと言われて、勝手にそんなことでシンパシー感じられても、と、少し嫌な気持ちになるかもな、と想起される人も含めて

 

「無駄だ ここは元から楽しい地獄だ

生まれ落ちた時から 出口はないんだ」

星野源地獄でなぜ悪い」より引用

 

地獄を見たことのある人間が、どのように世界を眼差し、どのようにその地獄を捉えているかに触れることが好きだ

悪趣味、と言われても仕方ない

でも、好きだ、という表現が一番しっくりくる

 

この世界こそが地獄であり、

それを知らぬ人間で溢れかえっているように見える世界で自分は生きており、

理不尽、憤り、孤独、自責、寂しさ、やり切れなさ、それらに晒されながら、

それでもその地獄に投げ込まれたまま生きている、

そういった生き方をする人間の、その奥底にある、滲み出る生の煌めきのようなものの照り返しを、瞬間的に感じるのが好きだ

そしてそれは、希望なんて言葉で装飾されるとたちまち嘘になってしまう

意味あることとして称揚すれば、たちまちその光が鈍ってしまう、そういうものであって

それを求めて生きること、人と関わることもまた、ボタンの掛け違いのような座りの悪さを感じる

 

自分の見ているものが真なる地獄だと、安易に言わない思慮深さが好きだ

自分はまだマシな方なはずだ、と捉え続け、自分だけが苦しいわけじゃない、他人だって程度の差こそあれ、自分と似たようなしんどさを抱えているはずだ、だから自分のここが地獄だと言えるわけではないんじゃないか、と、

どんなに疑い続けても、それでも「この世が地獄であるとしか、どうしても思えない」というところまで、自分の全てを奪われ、人生丸ごとを甚振られたことのある人間にしか、見えない景色がある気がしている

なんとなく、本当になんとなくでしかないが、目線の先に同じものが映っているように見えるように、接している最中で感じられる相手がいる

そういう人との間でのみ打ち明けられているものが、自分にはある

 

 

最後の最後で、問題に蓋をしない人間が好きだ

直視しないで無かったことにして、なんとなくなあなあに生きることより

私は、仮にそうしようとしたところで、自分がこの地獄からどうやっても逃げきれないことをちゃんと悟った先にいる人間が好きだ

 

自己自身が失われても、意識する脳が動かなくなっても、この地獄からは逃れられない

「逃げるな」ではなく、「逃げられない」んだ

自分の前に立ち現れる物事、さまざまな問題ごとから目を背けて、他人を責めて、組織を責めて、社会を責めて、人々の無理解を責めて、そうして自分が満足できるなら、どんなに楽だろう

 

自己から引き摺り出される問題を直視しながらでしか生きられない人間が、その逃げられなさを知っている人間が、好きだ

 

 

自殺の奨励では勿論ない

全員俺が死ぬまで生きていてほしい

仲良くしてくれている人なら尚更

みんなに、地獄の中であっても、「生きててええこともあるもんや」と思える瞬間が、なるべくたくさんあってほしい

 

その上で、こんなことを思っているのだ、自分は

 

「動けない場所から君を 同じ地獄で待つ

同じ地獄で待つ」

同上より引用

 

地獄を共有しあう「奇跡」は、ついぞ起こらないでしょう

そんな希望は抱きません

それでも、そのように錯覚せざるを得ない瞬間も、きっとあるように思うのです

どうやったって、こんなのまやかしだと吐き捨てきれない、そこでもきっと、そう感じることからも「逃れられない」と悟る瞬間が、きっと存在してしまうのです

われわれは、その錯覚が起こらないように生きることも、それは起こらないことがハナから確定されているのだ、そういうものなのだと世界を決めつけることも、ついぞ完遂しえないのです

だからこそ、希望に似た形の何かを、われわれは抱かざるを得ないのです

真っ黒に塗り潰してしまいたくとも、期待が湧くことを、どうしても止められない

だから、人と関わってしまう

言葉を発してしまう

どうにか、誰かに届かないものかと、その願いを消し去りきれない

生きている限りはずっと、そうやって生きてしまうのではないでしょうか

 

 

 

ここはたのしい地獄です

地獄の底で待っています

 

互いが生きている限り、またお話ししましょう

蠅地獄でした