2/23(金)、Twitterの、現在は非公開になっている(そして現在はアカウントごと削除した)私のアカウントの方で、自殺を遂行したいという旨の投稿を複数回行ったことで、それを見た知人のうちの一人に警察に通報されました。
その時私は、携帯を機内モードにしていたため、(ストーカーの件などで私や夫の名前と電話番号の情報を警察が既に持っていたために)警察からかかってきた電話がとれず、それによって夫の方に電話がかかってきたそうです。
その事情を知らないまま、夫が警察と電話していることだけを家にいるときに認識し、そのまま勢いで家から出ました。
友人と電話したり、LINEしたりしましたが、諸々のタイミング(警察からの電話がキャッチで入ってきて、友人と話し続けることが難しくなったり)などが重なり、なんだかもう、生き続けるために頑張ることが難しいと思いました。
そのため、警察からも夫からも、数十分おきに何度も電話がかかってきていたのですが、それを全て無視して、始発で福井の東尋坊に向かいました。
東尋坊は、行く途中で調べたのですが、「確実に死ねる絶壁」みたいなものは実はなく、高さとしても周りの木や崖の角度などからしても、生存率がそこそこ高そうに見えました。
(おそらく『完全自殺マニュアル』からインターネット等に流布された情報である、「20〜25m以上ないと、飛び降りても確実には死ねない」というのを、半ば私は信仰しています。大学の研究室は5階にあるのですが、よくそこの窓から乗り出して、下との距離を確かめるのですが、そこは20mの高さはギリギリないことを知っていて、その感覚に基づいて、距離をなんとなく推測していました。
ちなみに、この日保護された警察に聞いたのですが、「確実に死ねる高さ」自体は、一応データとしてはあるみたいです。逆に「確実に死なない高さ」はないという話もされました。20cm上から落ちても、落ち方がまずければ人は死ぬ、という話です。)
数時間、誰も周りにいない、もう一歩で崖から飛び降りられるところに座り込み、考えていました。
できそうか、できるか、できたとしても死ねるか、駄目だったらどうするか、痛いだろうか、寒いだろうか、それでも終わることができるならそれでいいのではないか、終わりたい、怖い、死にたい、ここで飛ばないとまた「ポーズ」だと思われる、でも死ねなかった時にもまた、「ポーズ」であったと言われることを含めて頑張らなくてはならない、それでもやれるか、他のもっと確率が高そうなところでやるか、でも今飛べるなら飛んだほうがいいのではないか。いけるか。痛いだろうな。寒いだろうな。
怖い。
死なないで頑張る、という選択肢も、生きるか死ぬかどちらの方が辛いという考えもわかず。
ひたすら、失敗した場合のことを考えていました。
死ねませんでした。
片足だけ、崖から乗り出したりしてみましたが、それでも、最後までできませんでした。
しばらくして、また警察から電話がかかってきたのでそれにやっと出て、そうして現地の警察に保護され、数時間話を聞かれ、迎えにきた夫と京都の自宅に帰ったという次第です。
以下からは、遺書まがいのものとして書き殴り、インターネットにあげようかどうしようか、と考えていたものです。
今となっては伏せておいた方がよさそうなところだけ伏せて、ここに載せます。
(色々書いてますが、今ここでこれを公開するのは、誰かを責める意図をもってのことではありません。)
実際のその場に行くまでは、この文章をインターネットにあげたり、(これ自体あげないにしても何かしらはインターネットに残そうと思っていたり、)キャッシュカードを暗証番号を付して身内に送ったりという算段をしていましたが、その場に行くと全部、どうでもよくなってしまいますね。
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よく舐められる人生だったなぁと、思いました。
大学の人権委員会や人権相談窓口での相談、ハラスメント申立への対応にしても
◾️◾️◾️◾️◾️(であるというのは、こちらのでっち上げだそうですが、◾️◾️◾️◾️◾️規制法にのっとって警察からの口頭注意を複数回受けている方)の、◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️◾️にしても
専門周りの、研究科の指導教官、◾️◾️◾️◾️◾️の指導教官、間に入った教員、昨年ハラスメントガイドラインを規定した某学会の現会長前会長のハラスメントや性加害への認識にしても
保育園から高校に至る、田舎でぼんやりと輪郭のない、曖昧な仕方での全般的いじめに参加した同級生や先輩後輩、その親族、また教師たちにしても
金銭的な援助を兄弟のうち私にだけしないことをうやむやにし続けた親族にしても、こちらを明確に邪険に扱う一部の親族にしても
大学に入ってから勤めた数々のアルバイト先の店長や従業員にしても
今までの交際相手や、親密な仲になった人間たちにしても
誰も彼も、私のことを舐め腐っておりました。
助けてくれた人もおりました。
有難きこと、と思っています。
上に挙げた人たちも、たくさん助けてくれたことがありました。
憎むところばかりではありません。
しかし、一人たりとも、「じゃああなたを救ってあげよう」と名乗り出た人はいませんでした。
みな口を揃えて、「私にはここまでしかできない」と言って、一番責任のかかることは触らぬまま、他者に任せようとしました。
ここまで書いて、これが最後の文章かと思うと、あまりの駄文に泣けてきました。
こんなことしか言えない人生だったか、と。
文章で書いても口頭で伝えても、おそらくほとんど、他者にはわかってもらえない事柄を書きたいと思います。
私は「理解されること」に執着していました。
訳のわからぬまま、私を処理してくれるなと、ずっと思っていたのでした。
だから、伝わらないでしょうけど、理解可能性をここに展開します。
じっくりじっくり、死ぬことの準備ができてしまっていたのだと思います。
心が削られ、その削り節を見ても何も感じなくなるまで、十分な時間を持ってしまいました。
痛みも悲しみも感じなくなり、その上で希望を抱かなくなることにも、惨めさを感じなくなりました。
自分の生の価値、意味、自分の存在の大事さ、「生きたい」と願うこと、みな、手繰り寄せることができなくなりました。
私が生きることにも、死ぬことにも、何も意味を感じなくてよいのだと、そして今がその状態だと、思いました。
「もう限界」などといった、切迫した気持ちは湧きません。
淡々と、実行の準備を進めています。
記憶も、全て薄れてきました。
今までは、この健忘によって、騙し騙しやれてきたように思います。
そして、そうやって「無かったこと」にした、自身の苦しみ、悲しみ、絶望、「すべてやめたい」という願望、そういうもののツケを払う時がきたのでしょう。
今のところ、怖くありません。
足元にそれが迫ったら、やっと実感できるのでしょうか。
ここまで書いて、特定個人に、何かを伝えたいという気持ちがないことが確認できました。
誰かに、「分かって」ほしい。それだけでした。
あぁ、でも、私と関わった人で、私のことで、この先苦しみや後悔は、そんなに抱いてほしくないなぁ。
そりゃあ、少しは悔いてほしいとも思うけど。
もういない人間のために、生きている人間がそこまで心を割かなくてもいいよ、と。
周りの、生きている別の他者に、悲しいことが起こらないように動いてあげてください。
個人へのケアとしても、制度や風潮の是正にしても、世界に対する認識にしても、なにか、変えてやってください。
それは、ほんとうに思うことです。
しかしこんなふうに最後まで、ちょっとした「いい子ちゃん」をしていると、結局のところ、誰も、何も、変わらないのだろうか。
誰も彼も、私がいた時と同じで、「自分にそこまで責任はなかった」と、思うのだろうか。
それは悲しい気もするけれど。
それでもいいか。私の命、生、人生に、価値などないのだから。
「病んでいる」と私を馬鹿にしてきた人。
「それでも自分のことをまずはなんとかしないと」と、暗にセルフケアでなんとかするようにと窘めてきた人。
「お前が全部悪かった」と、ここまでの事態になっても怒り狂う、もしくは嘲る人。
本当の意味では私を愛してくれなかった、◾️◾️◾️、◾️◾️◾️。
どんな言葉を、態度を、行動をこちらが尽くしても、決して、私のことが分からない人。
そう言ったとしても、「お前がこちらを分かろうとしないからだ」となおも責め立てるだろう人。
私がそう返答を受けていつも絶望していたのは、こちらの「分かってほしい」をとりあえず受け取ることを、どこまでも拒否されていると感じるからです。
卵が先か鶏が先かみたいな話を持ち出して、まずは自分をちゃんと受け入れてくれ、ばかり、言わないでください。
私は、受容されていると、本当の意味で誰かから感じたことは、一度もありません。
「自分もそうだ」とか、反射で返さないでください。
私をもう、追い詰めないで。
悲しかったです。痛かったです。苦しかったです。
ずっとずっと、死にたかったです。
「死にたい」と言うたび、「どうせ死なない」と言われ、死ねないことに苦しんでいました。私が死ぬ死なないということが、ほんとうにどうでもよいことなのだ、と、とても辛かった。
でも、もう、終わるのです。
誰も私の人生に責任をとってはくれないし、大事にもしてくれないので、私だけは、私のしたいようにさせてやろうと思います。
今までお世話になりました。
皆様の益々のご活躍をお祈り申し上げます。
生きたくても生きられない人がいる。
私の「死にたい」なんて、どうせ自業自得だろう。
もう、それでいいです。
私だけは、今だけ、最後だけ、私を愛してあげようと思います。
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以上です。
付記
特定個人の知り合いのうち、自責しそうな友人の顔が浮かんだので書くが、これはあなたを責める文章では全くない。本当に、書いていたその時も、そのつもりはなかった。あなたが自責する可能性があると頭では分かっているのに、なお現在これを公開する私のほうがむしろ、恩知らずの馬鹿野郎である、申し訳ない。
前も伝えたが、そしてあなたもその感情を理解してくれるものと勝手に期待してしまうが。
労られていると分かっていても、他者全般に絶望することがあると思う。そしてそれは、自分に対していつもよくやってくれている個人個人に対しての恨みには、本当のところ接続しない。それは結局、世界が自分を拒絶している(ように思える)ことへの恨みなのだから。そういうものです。
付記の付記
くどいな。付記の感想にも近い。
結局、なんとかして、書き手の意図を理解してもらいたくてもがく自分は滑稽だし、何らかの倫理的道徳的な部分の欠落があるように思う。
そしてそれに連関して、思うことは次である。
浅い浅い、人に分かりやすそうな話を、自分にとっては″事実″なのだろう、そういったストーリーをこさえて、なんとなく共感してもらった気になることで、自分の核心が癒えるなら。
それほど幸せなことはないな、と、ある他者への皮肉を感じながら、思った。
しかしそれは羨望でもある。そういった角度での馬鹿に、愚かな人間に、私もなりたかった。
それだけ馬鹿なら、多分今の私の人生よりは、呼吸するときに入ってくる空気が口の中や喉や肺に刺さらずに生きていけそうだ。
警察にも言われたから、そう思うのだが、どうにもならない人間のことは、ハナから非存在者だったとして、現在と未来に接続する己の生の世界を編む際には構成要素から外せばよいようだ。
これから自分が、そもそも生き続けていくかどうかなど、今の私には考えられないが、少なくともそのようには、当面は考える。
ほんとうにおわり。