多分書きたいことはこれではなかった

本当は万年筆でノートに書きたいが、堕落した人間なのでこうやってスマホで書いてしまう

本来そういうところに書きたいのだが

 

種々の気持ちを味わった

ポジティブな、というか、あたたかな感情については、また別途紙に書こう

ネガティブな、というか、そんなにポジティブだと言えない、言うにははばかることについて書こう

それは、そういう気持ちだからという以上の理由はない

 

間接的に、人の自死に関わった

間接的もいいとこで、私は当の人物に会ったことすらない

それでも関わった

 

一つ感じたのは

僕の場合、自死を選ぶことがかなり身近にあるからこそ、それが身近にない人々に自分の自死の知らせが届き、弔われることは、酷くグロテスクなことに見えた

 

なんだかんだいって、やっぱり死なない人たちからは、どうしたって、その死は「どうして」となるんだな、と

どうしようもないし、誰が悪いという話でもないし、本当に部外者でしかない僕だからこそ、そんなこと勝手に思えるのだろうけど

でも僕は、その会った方もない人の弔いの場の様子を聞いて、ひどく悲しかった

 

でも、同時に思うのだ

この世は生きている人間のためのものである、と

だからこそ、生きている人間がどのように死んだ人間を解そうとも、生きている人間の都合でそれは決めてしまっていいんだ

何を死者への冒涜とみるのかも、冥福への祈りとみるのかも、結局は、みな生きている人間のためのものである

「死人に口なし」という言葉すら、生きている人間の作った、生きている人間のための道具でしかない、それを肯定的に使おうとも、批難として使おうとも

(こういう言葉を、生きている人間が自嘲と皮肉のつもりで自分に使っているのが滅法嫌いだ、生きてるんだからそんなこと言ってないで口を動かせよと思う、しかしこれは一般論でなくただの腹いせ)

 

 

たまに自分が死人になる夢を見ることを思い出した

だから何ということはない

 

 

 

僕は多分死なない、自死という仕方では、少なくとも

死にたいを連呼することもあるけど、多分死なない

でも、最後の一歩に進める人間であることは変わりない

僕はもう、縄をどのように引っ掛かればすぐに意識が落ちるのか知ってしまっている

 

 

俺が自分の人生を生きると本気で決めてしまえば、信じ切れたら、多分もっと、どうにかなるんだろう

眠くなってきた、おやすみなさい