こうやって何か、文字に残しておこう、そして、それをインターネット上に、人に見えることがありうる仕方で、置いておこうという欲求は、大学二、三回生くらいから、現在に至るまで、変質しながらも生きながらえている
おかしなことだとも思う
充足すれば書きたいものなどなくなる、と言う人がいる
いじわるな裏返しで、書きたいものがあるならお前は充足していないのだ、などと、人に唾かける人も、私の頭の中には、少なくとも、いる
自分が満たされているか否か、自分が幸福か否か、自分が誠実か否か、真っ当か否か
そういうものに絶えず囚われ続けてきていたはずで、そういうものとの闘いが、人生における主題であった、
、、、
はずなのだ。
もう思い出せない。何がそういったことへの偏執を引き起こしていたのだろう。
劣等感
羞恥心
罪悪感
恨み、憎しみ、妬み
そういうものだろうか。
感覚を、すぐに忘れてしまう
思い起こす、再生を試みる、そういうことは、できない
忘れる、というより、己の中での、消去、だ
から、今も再生産される、感情群らは、きっと現在のものでは、あるのだろう
自己を分析することも、昔よりずっとずっと少なくなってしまったが。
それがどうしてなのかも、やはり、分析しようと頭の神経が働くことはないのだが。
今ある、執着、と他のひとにとっては受け取れるだろうこれは、なんなのだろう
生命の危機とも関わっている気がするし、それが存外大きいのかもしれない
今日の面談の場で、自身から出た、そういう感情、そういう志向、そういう不感の手触りは、やはりどこか私由来なんじゃないか
とも思うし、他人の脳みその果てしなき遠さにも、思いを馳せは、するのである
他人が何であるか、われわれはどこまで”わかって”いるのだろう
他者として、読み手が現れる
他者として、読み手となる
対峙する、その時に、相手とは、他者とは、何であり、
ここまで書いて、ああ私には、何であり、誰であるのかと、続けられないのだなと気づく
誰、は、ある意味で、いないのだろう
少なくとも、こうやってひとり部屋の中、静かな深夜、人間の気配を感じない、この場では
私は他人の存在に対し、すぐに不信になってしまうのだろう
こういう夜を何度も越えることで、どんどん他者を、排除していったのか
世界全体が、こういう夜に、傾いていったのか
そんなことを考えてもみるが
考えども考えども
これは自分の話でしかない
これは自分の話でしかない
語らずとも悟れる他者など、随意に動いている間は、道具や四肢の延長だろう
わかりあえないことが、前提であり結論である
理解はどこまでも開かれたまま、閉じられることはなく
理解へ臨む運動は、やむことを許される日を迎えない
理解への欲求は、運動を起こす原動力であり、満たされることが許されていないために、原動力という役割を与えられている
僕は研究対象の問題提起にそくして、よく「理解するとは何か」ということについて考えるが
「理解される」とはなんなのだろう
複雑で、歪んで、ねじ曲がって、重なり合って、ほどけなくて、入り組んでいて
自分だって自分のことを把握できなくて、それゆえに自分で自分に振り回されることもあって
しかし、他からの刺激、応答に対しても、振り回されて、傷ついて
そういったとき
「理解されたい」という欲求を、抱くのだろうか
僕はかつて、「理解されたかった」はずで
それが救いだと感じていて
文章を書く原動力も、それであるのだと思っていた、はずであるが
霧散している、「理解されたい」が、自己の内面に対して、特段大きく湧いてこない
そりゃ、場面場面で感じることについて、わかってほしいと欲することは、未だあれど
理解されたいのでなく、ただ大事にされたかった、ということだったのかもしれない
ここはブログという場であるし、以上でも自分のことしか書いていないので、普通に実存の話をするが
結婚をすることとなった一つの理由は、僕がこの人を信用すると決め、そしてその信念はきっと今後も大丈夫だし、もし大丈夫でなかったとき、その場での自分は、それでもなんとかちゃんとするだろうと、そういうことをまとめて信じるようになった、ということかもしれない
もちろん、不安事項懸念事項は腐るほどあるし
相手も問題が多い人物であり、私なんかもっと問題がある人物であるので(よく忘れるが、この間だって首を吊ったのだ)(そして、結婚してからは、もう私だけの責任でなくなるので、死ぬことはしないとも、決めたのだ)
なにかと当人同士での揉め事や、各々の関わる他者とのトラブルで日々沈没寸前ではあるのだが
まあそれでなんとかならないときはそうそうこないし、なんとかできなかったらなにかしらを頼ったり休んだり捨てたり諦めたりして、なんとかするでしょう
とかなんとかいいつつどうなるかわからんけど、これですぐあかんくなったらおもしろいね
こういうネガティヴなことを書くと毎回怒られるよ
愛しているよ
やはり書くという取り組みは面白い
考えも感情も、そしてそれに伴って現実も、たとえ他者に読まれずとも変わっていくから
満足した、おやすみなさい